浦野 正美
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)はイタリア・ルネッサンス期を代表する著名な芸術家であり、誰でも一度はその名前を耳にしたことがあるだろう。医学関係では『ダ・ヴィンチ外科手術システム』として、内視鏡下手術用ロボット装置の名前にも使われている。しかし、彼は画家、彫刻家、医学者、科学者などの多彩な顔を持つため、その全体像をつかむのが難しく、いまだに多くの謎に包まれている。
レオナルドの芸術作品としては、『モナ・リザ』や『最後の晩餐』のような精巧な絵画がよく知られている。その特徴は色彩の透明な層を上塗りして、境界線を描かずに立体感を出すスフマート技法や、遠景の輪郭をぼかし、色彩を大気の色に近づけるなどして、空間の奥行きを表現する空気遠近法である。画家としても非常に有名であるが、現存する絵画は17点に過ぎない。
レオナルドの多岐にわたる研究は、13,000頁に及ぶ手稿に、素描と共に記録されていた。レオナルドは遺言により弟子のフランチェスコ・メルツィにこれを託し、いずれ出版する計画を抱いていたようである。
メルツィは自分が死ぬまでこれを大事に保管していたが、彼の子孫はその価値を理解せず、この膨大な資料は各地に散逸した。現在は3分の1程度しか残っておらず、ほとんどは公的な美術館が所有しているが、一部はビル・ゲイツのような大富豪がコレクションしている。この手稿はしばらく世の中から忘れ去られていたが、19世紀になって科学技術の分野での先駆的な研究として注目を集めるようになった。国内でレオナルドの書物は美術書を中心に数多く出版されているが、手稿に関するものは、わずかに岩波文庫の杉浦明平の訳による『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』が手に入るのみである。
本書は各地に散らばった資料を集め、その内容によって3部14章に分類編集した素描画集であり、同時に主題別のアンソロジーとなっている。左利きであったレオナルドは、手稿を鏡文字で記載していた。そのため通常の文字と上下は同じだが左右は逆、文字の進行方向も右から左へとなっており、解読には相当の困難が伴ったようである。本書はレオナルドの記載を忠実に翻訳してあるが、適宜、参考資料を添付して解説しているので読みやすい。
第I部は美、理性、芸術に分けられ、第II部は自然の観察と秩序、第III部は技術と応用に分類されている。それぞれに遠近法と視覚のしくみ、人体解剖、地理学、物理学と天文学、建築と都市計画、機械の発明などに細分類されており、豊富な原図と手稿により、ビジュアルにレオナルドの仕事を見ることができる。
この中で特に有名なのは『ウィトルウィウス的人体図』である。これは古代ローマ時代のウィトルウィウスの『建築論』の中にある、「人体こそが建築様式の重要な構成要素である」という思想をもとに描かれたものである。この図では正確な比率によって男性が円と正方形の中で手足を広げた構図となっている。正方形は物質的な存在を表し、真円は精神的な存在を象徴しているといわれ、この図によって科学と芸術の融和を表現しようとしたと考えられている。具体的には「掌は指4本の幅と等しい、足の長さは掌の幅の4倍と等しい、肘から指先の長さは掌の幅の6倍と等しい」などの記述がなされている。
人体解剖に関する記載は現在の解剖学のレベルに達しているが、その発想は人体を精密に描こうとする探究心から生まれたものであり、筋肉や骨、血管、神経の精密な描写から始まり、さらにその機能、動物との比較、機械のメカニズムへの応用と関心が進んでいくことがうかがわれて興味深い。もしレオナルドがこの業績をまとめて一冊の本にしていたならば、世界初の本格的な解剖医学書となったであろうが、彼の興味は次々と他のものに移っていったので、それは果たせなかった。半世紀ほど後の1543年にアンドレアス・ヴェサリウス(1515~1564年)によって詳細な解剖学書『ファブリカ』が出版され、これによって近代解剖学が始まったといわれている。
人体を描くという点に関しては、体表から透けて見える筋肉や骨を正確に理解し、素描では精密に記載しながら、実際の作品の段階となるとそのすべてを覆い隠すように描き、自然な感じに仕上げている。
本書はレオナルドの多岐にわたる仕事を詳細に見ることができるが、全体を見渡すとその基本はやはり絵画に対する興味であることがわかる。彼は孤高の人であったため、この業績は人に伝わることなく長く埋もれていたが、500年の沈黙から目覚めて我々の目に触れることになった。この手稿を読むと万物を描くためにレオナルドが模索した鋭い洞察力や観察眼がわかり、その姿勢には現在でも見習うべき点が多々ある。あらゆる学問の芽がつまっている本書を読むことにより、様々な研究のヒントが得られるかもしれない。
この精緻な描写とその思考過程、次々に変遷していく興味の対象の多彩さを見ると、ある意味でレオナルドは現代のいうところの究極の「オタク」であったのかもしれないと思う。本書によりレオナルドの天才の秘密の一端を覗くことができるかもしれない。
なお、この本を私に教えてくれたのは、第三解剖学教室の牛木辰男教授である。昨年の暮れに新潟大学駅前キャンパス『ときめいと』で、新潟美術解剖研究会の研究発表会である、グループBK(美術解剖)の人物デッサン展が開催された。その展覧会に合わせて、牛木先生による『絵の中の解剖学』という講演が行われたが、今回の記述はその講演内容を参考にさせていただいた。本書は絵に興味のある人はもちろん、基礎医学に関心のある人も面白く読むことができると思う。
『ウィトルウィウス的人体図』のブロンズ像
昨年の夏にイタリア旅行をした際に土産物屋で購入したものである
『レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の素描と手稿』
監訳 | 森田 義之 |
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出版社 | 西村書店 |
ISBNコード | ISBN978-4-89013-679-7 |
定価 | 3,800円+税 |
(平成25年1月号)