五十嵐 謙一
田舎で開業していると患者さんのほとんどはお年寄りで、医療より介護の方が大事だと思われるような人や、認知機能が低下している人が多数います。そのような患者さんに対してどのように対応すればよいのか考えていた時に、新聞の書評欄でこの本が紹介されていました。「介護民俗学」という聞きなれない言葉が気になったうえに、筆者はかつて大きな賞を受賞した新進の民俗学者だったのに、どのような事情からか大学教員をやめ、郷里で介護職員として働いているとのことで、どうして介護なのかと大変興味を持ちました。さらに、次の週には別の新聞でもこの本が紹介されているのをみて、すぐに書店へ走り購入しました。
筆者は、介護職員として働き出したころ利用者から「生き地獄」という言葉を聞き、多くのデイサービスの利用者が死に対する恐怖心を抱えて生きており、そして、家族からも社会からも疎外されて自分が生きていく意味を失っていることが分かり、利用者たちの深い絶望感をどう受け止めたらよいのか考えます。そして、高齢者へのケアの方法として回想法があることを知り、民俗学での聞き書きとに多くの共通点を見つけ出すとともに、老人ホームの利用者たちの語る世界の豊かさにも気づき、聞き書きを始めました。そして、「生き地獄」という言葉から始まった介護現場での「テーマなき聞き書き」を、民俗学でのテーマに沿った聞き書きや従来行われていた回想法とは区別して「介護民俗学」と名付けたのだそうです。
そして聞き書きを続けていく中で、認知症を患った利用者であっても、子どものころから青年期についての記憶はかなり鮮明に保たれていることに気づかされます。支離滅裂で意味をなさないかと思われた日本語も文脈がわかると次第に聞き取れるようになり、そして日々の行動と記憶とには深い関わりがあり、職員には理解しがたかった利用者の行為もその人の生活史を知る手掛かりとして見えてくると言っています。「日常的な介助の場面で、そうした身体の深い記憶に触れる瞬間があり、その方の歩んできた人生に基づいたカラダの記憶と現在の状況とのあいだにある大きなギャップに、利用者自身が困惑し、そしてなんとか理解しようと奮闘している。利用者たちのそんな思いを受け止めておくだけで、『不思議』と思われる言動への理解が深まる」「認知症の利用者の行動にとことんつきあい、とことん観察し、そしてとことん記録していくという関わり方は、認知症の利用者への理解に応用できる」「言葉の裏にある見えない『気持ち』を『察する』のではなく、相手の言葉そのものを聞き逃さずに、書きとめることに徹する。それによって相手の生活や文化を理解する」。実際に認知症の患者さんに接していると、患者さんの話や行動がどんどん飛んで行って感情が不安定になってしまうことをしばしば経験しますが、この内容を読んでなるほどと合点するとともに、利用者に接する姿勢に感銘を受けました。このような姿勢は、認知症患者さんと接していくうえで、介護職員だけでなく医療者にも必要なのではないでしょうか。
さらに、筆者は老人ホームで利用者との別れを経験し、利用者はいつ病状が急変するかもわからないしまた急逝するかもわからない、そんな死の淵にいるのが現実で、高齢者介護は広い意味での“ターミナルケア”であると書いています。開業医として長年患者さんを診ていると、高齢者は確実に老いていくのを実感します。介護職員はもちろんですが、私たちも普段の診療がターミナルケアとしての意味を必然的に持つことになると、心に留めておかなければならないと思いました。
さて、このような筆者の姿勢を支えているものは何なのでしょうか。それが、この本の題名にある「驚き」であるのだそうです。「聞き書きをスムーズに進めるためにも、深いところまで話を掘り下げるためにも、そして何よりも利用者自身が気持よく心豊かに話をするためにも、決して欠かすことのできない、聞く側の持つべき重要な態度が、『驚き』である」「驚くこと、そして、驚き続けること。それが『介護民俗学』を支えるいちばんのエネルギーになる」「知的好奇心とわかりたいという欲求、そしてわかったときの驚き、それが利用者と対等に、そして尊敬をもって向き合う始まりになる」「『驚き』がなければ、『面白さ』も薄れていく」。私は日々の生活の中で、「驚き」を感じているだろうかと考えさせられます。
しかし一方で、これほどの熱意をもった筆者でさえ、看護現場の過酷な勤務の中でこの驚きの感受性を摩耗させ、一時聞き書きができなくなってしまいます。現場の業務を遂行することと、知りたいという知的好奇心に素直になることとのバランスをとることの難しさ、感受性がすり減った看護職員が働く介護現場の絶望も本書では見せてくれます。介護の現場を絶望の場所としないように、医療者もなにをしなければならないのか考えさせられました。
日本は超高齢化社会に突入しています。今後、高齢者をどのように支えていくか、介護やターミナルケアをどうしていくのか、難しい課題を抱えています。最後にあとがきにあった言葉を添えておきます。皆さんも是非この本を手にとってみてください。
「誰しも年をとる、介護される側になるというのは決して特殊で特別なことではなく、人間にとっては誰しもが迎える普遍的なことであり、自分もそうなるのだ。そういった想像力が、介護を問題化するのではなく、介護を引き受けていく社会へと日本社会を成熟させていくための必要条件だと思えるのだ」。
『驚きの介護民俗学』
著者 | 六車 由美 |
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出版社 | 医学書院 |
定価 | 2,100円(税込) |