安藤 伸朗
私達は知っている積りで何も知らないことが沢山ある。20世紀最大の医薬品の発明ともいわれるインスリンの誕生もその一つであろう。
これまで私がインスリンの誕生について知っていたことは以下のようなものであった。1921年にカナダ・トロント大学のフレデリック バンティングとチャールズ ベストが膵臓からの抽出物が血糖を下げることを発見した。1922年に膵臓抽出物が1型糖尿病の14歳の少年レナード・トンプソンに初めて投与されて劇的な効果を示し、「インスリン」と命名された。当時の糖尿病は死に至る病気と恐れられていたが、レナード少年は見違えるほど回復し、インスリンはミラクル(奇蹟の薬)といわれるようになった。
本書『ミラクル』の原題は『BREAKTHROUGH』、副題は「エリザベス・ヒューズと何百万人の糖尿病患者を救ったインスリンが如何に発見されたか」である。これまで語られることがなかった、インスリン発見をめぐるノンフィクション。エリザベスの生涯を通して、治療法のない患者の不安や苦しみをリアルに描くとともに、奇跡的に死から生還した患者と家族の喜びを感動的につづっている。著者のT.クーパーとA.アインスバーグは、周到な調査と取材を重ねて、くどいくらいに細部まで描き出している。
若年性糖尿病と診断された時、エリザベス・ヒューズは11歳(1919年)だった。エリザベスの父は、アメリカで最も有名な弁護士で、後に国務長官を務めた政治家でもあるチャールズ・エヴァンズ・ヒューズである。当時、糖尿病という診断は死の宣告を意味していた。唯一の“治療法”だった飢餓療法を受けたエリザベスは体重が20kgに減って骨と皮になってしまった。ちょうどそのころ、遠く離れたカナダでは、フレデリック・バンティングとチャールズ・ベストの2人の若い研究者が、何とか動物の膵臓からインスリンを単離精製することに成功した。破壊的な病気との時間を争う闘いの中で、エリザベスは世界で最初に製品化したインスリン注射を受ける糖尿病患者の一人になった。そして彼女は74歳まで人生を全うし、社会的活動・教育的活動を行った。
だが、このミラクル(奇跡)も、学問的な嫉妬、熾烈な事業化の競争にもみくちゃに翻弄されることになる。インスリン発見に野心的に挑戦し、インスリン発見後の興奮と葛藤により運命が翻弄されたバンティングら研究者の織りなす人間的ドラマは感動的だ。そしてインスリンの発見者たちとイーアイリリー社は世界中にインスリンを供給できるようにするために必死に奮闘した。そこにはボストンのエリオット・ジョスリンも登場する。
昨年は、インスリン発見(1922年)から90年目の節目の年であった。翌年にはインスリン発見の業績に対してノーベル生理学・医学賞が授与されたので、今年で90年目を迎えたことになる。
私達医者の知識は、科学的事実や歴史的事実であるが、インスリンの誕生の裏には多くの人たちのドラマや涙や感動があること、そして世紀的な新薬の開発・商品化に大学と企業が共同でチームを組んだという画期的な試みがあったことを示している。この意味では、本書はトランスレーショナルリサーチのバイブルでもある。
『ミラクル』、専門の如何に関わらず一読をお勧めしたい本である。
『ミラクル エリザベス・ヒューズとインスリン発見の物語』
著者 | シア・クーパー、アーサー・アインスバーグ |
---|---|
監修 | 門脇 孝 |
翻訳 | 綱場一成 |
出版社 | 日経メディカル開発 |
定価 | 1,890円(税込) |
(平成25年4月号)