小林 晋一
司馬遼太郎氏は政治的な発言には、極めて慎重であり、消極的であり回避しているきらいもある。しかし、農政問題、土地問題に関しては例外と思われる。抑えきれない胸中が吐露されることがある。
律令以来、島国日本の農民は高知県の山間部や新潟県の亀田郷などのように、高地の石を割って土をつくり渓流から水をくみあげて水田を造ったり、潟に水中の泥をかき集めかろうじて田を作り、水に胸まで浸かりながら苗を植えてわずかな収穫を得るといった惨憺たる苦労を重ねてきた。このように先祖代々の思いのこもった土地が、国の農業政策のために投機の対象となり昂騰し、農民の労働意欲を著しく損なうことになった。
亀田郷は新潟市の南郊にひろがる1万5,000ヘクタールの地域である。江戸初期から近年まで湛水の田であったが、昭和30年に乾田化した。司馬氏の文章を引用する(やっと乾田化したとき、国が農業を半ば捨てるという時代になった。そういう国の農政だけでなく、3つの市町村の土地行政や農業政策が入りまじれば、せっかくの乾田が政治と行政とさらには地価暴騰…のため、めちゃくちゃになってしまうおそれがあった。亀田郷土地改良区は特別立法による社団法人である。それを運営している理事長の佐野藤三郎氏はそういう複雑な現在の法社会や経済社会の現実の上に立って、一種超然としながらも、それらの現実を操作して、日本国の行政のなかで小さな「幕府」をつくっている。ここで、「幕府」とは、合法・非合法すれすれの実際的行政組織いうほどの意味である)。(佐野氏が「事業」というのは、要するに亀田郷の生産営農を安定させるためのあらゆる事業だという)。
明治維新を経て、明治6年に突然地租改正が行われ金納制となり農民は重税に苦しむことになった。古来、自給自足のままでいる農民にとって米を金に換える力などなかった。地主に田を安く買ってもらい、金納してもらい自分は先祖代々の田をそのまま耕し、以前藩に収めたように、地主に物納してゆく。つまり小作人が増えることになった。古厩忠夫著、『裏日本-近代日本を問いなおす-』(岩波新書1997年)によれば、明治期における地租収入は国の税収の2/3~90%をしめ、明治末から大正期にかけ日清、日露の戦費のため農民の負担はますます増大し、山陰、北陸地方の小作地率は50%前後となったという。
木崎村小作争議の発端は、地主が小作人に対し、小作料未払いを理由に訴訟をおこし、仮処分の申請をおこない裁判所に受理されたことによる。(このことについては川瀬新蔵氏の『木崎村農民運動史』には、祖父伝来の土地に「小作人入るべからず」の禁札が雪解けの水を湛えて氷雨煙る中に鷗の如く点々としてたてられた。とある)。小作争議の幹部で当時存命の明治28年生まれの池田氏、明治38年生まれの遠藤氏、39年生まれの川崎氏の座談で叙述される。(「悲惨でしたよ。百姓がくらしにこまって首吊をするのがざらにありました。大正の小作争議は、争議というよりは解放運動でした」。「木崎村は、江戸時代はみな自作農だった。明治になって小作農になった」。川崎氏によると、池田翁は争議が頂点に達したある時期、壇上に立って、私ドモハタダ人間トシテ認メテホシイダケダ。…と言いあとは何もいえず絶句したという)。
司馬氏は新潟県に行ってみようという気になったきっかけをこう述べている。土佐の檮原について調べているうちに、…律令の世の農民に関心を持った。小さな収穫を得るために信じがたいほどの過大な労力をはらって耕地を造らざるを得ず、檮原のような営みは古来日本の各地でつづけられてきたし、このことは日本人の性格を形成する要素の一つになっているような気がするようになった。ということに重なると。
農政、土地問題について、司馬氏の叙述を抜粋する。(私は十年ほど以前から、日本の社会を混乱させているのは土地制度ではないかと思ってきた。一億人の人間が土地を投機の対象と信じていること自体、経済的狂人の社会というほかはないと思っていたし、…一坪三十万円というような地価の上に、一本百円の大根を育てざるをえなくなっている。というようなことが正統な経済行為であるはずはなく、そういう行為の上に成立している働く気持というものは荒廃せざるをえないのである)。
(明治以後の土地私有についての野放図さと土地利用についての不厳正さがこの結果をまねいた。…それが重症化したのは、工業製品を外国に売って外国から農産物を買うという仕組みになってからである。…この方式は農民に対して、「以後、左様に熱心に農業をする必要はない。食わせるのは工業家とその製品を海外に販売する問屋が引き受ける」…さらに具体的にいうと、「農家は作業を機械化することで省力化せよ。あまった労働力は工場や建設工事のほうにまわして賃銀を得よ。工業生産のためにはそういう安い賃銀労働者が必要である」ということになる)。
歴史、文化、地理、政治、経済、文化人類学などの分野を縦横にめぐり、世のさまざまな実像をあぶり出す司馬氏の文章は、説得力に富み、感動的である。
『街道をゆく(9)潟のみち』
著者 | 司馬遼太郎 |
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出版社 | 朝日新聞社 |
定価 | 1,260円(税込) |
(平成25年5月号)