風間 隆
大学まで剣道をしていたこともあり、書店に立ち寄ったときにその題名がすぐ目にとまった。著者は外国人である。その題名から、一般的な日本人が知っている武士道とは異なる外国人である著者が考えるアウトロー的な武士道が書かれているのかと思った。帯に『日本人を鍛えなおす「アレックス流武士道」』とあったこともそういう先入観をもたせた。しかし、読み始めてすぐにそれは違うことがわかった。
著者は関西大学准教授で、剣道錬士7段、居合道5段、なぎなた5段の武道家である。ニュージーランド出身で、高校生のときの日本留学時に剣道と出会い、その魅力にとりつかれた。帰国後も剣道を続けているうちに武士道や武道精神に興味をもち、国際武道大学や京都大学文学部日本史科に留学して博士課程を修了した。それらの研究で優れた業績を残し著書も多い。『葉隠』などの翻訳や英語の剣道雑誌創刊などを通じて、外国における日本武道の普及と国際交流に貢献し、諸外国における日本武道の実情にも明るい。そのような著者が考える武士道は全く正論に思われる。
序章「変転する武士道」では武士道の発達史がとても解りやすくまとめられている。この部分を読んだだけでもこの本を購入してよかったと思う。以前読んだ佐伯真一著『戦場の精神史─武士道という幻影』によれば、戦国時代の武士の戦いぶりには謀略やだまし討ちなどが多々見られ、いわゆる武士道の精神からは程遠いものがあったようである。戦国時代が終了し天下泰平の時代になり、戦士としての役割を終えた武士がいかに生きていくかについて必要に迫られて武士道が発達したようだ。そこには儒学を基礎とした社会秩序の維持という目的が込められていた。それには時代や地域により違いがあったようだ。明治維新後、武士が存在しなくなってからも武士道は消滅することはなかった。明治政府は、たった人口の5~6%でしかなかった武士の倫理体系であった武士道をすべての日本人の特性として押しつけ、日本をひとつにまとめることに利用した。武士道という言葉は出てこないが『軍人勅諭』には武士道に不可欠な要素が盛り込まれているという。古代の巨大国家をひとつにまとめるのに宗教が利用されたように、士農工商、幕藩体制の時代から近代国家に移行するときに、日本がひとつにまとまり軍国化するために武士道の精神が利用されたということのようだ。
著者は残心こそが武士道の神髄と考えている。残心とは、勝敗が決したと思った後でも相手からの逆襲に備えて身構えと心構えをすることである。生死をかけた戦いでは勝敗が決したと思っても、深手を負って瀕死の相手の突然捨て身の攻撃で命を落とすこともあった。残心は自分の身を守るために必要な行為であるが、しかしそこには敗れたものへの礼儀、エンパシー、慈悲の心も込められたものであるという。昨今の柔道には残心がみられない。審判の試合終了宣言がないうちから勝者がガッツポーズする姿が日本選手にもみられる。日本柔道が勝利至上主義になり、精神性が蔑ろにされていることが柔道界を揺るがしている問題の根底にあるというのだ。それに対し、剣道では残心が常に大切にされてきた。技が決まり1本を取っても、ガッツポーズの素振りが少しでもみられると取り消されることがある(昔、私が剣道をしているときのルールではそれはなかったと思うが)。
武道にはスポーツにはない深遠な宗教にも似た精神性がある。それは普遍性を持ち日本独特のものではない。むしろ外国でその精神性がより高く評価されている。日本では精神性の重要性が忘れられつつあるというのだ。また、オリンピック競技になった柔道のように国際化に伴い勝利至上主義、商業主義に陥る危険性を指摘している。剣道をオリンピック競技に推そうという動きがあるようだが、全日本剣道連盟は反対の立場であるという。大賛成である。剣道世界選手権をネットで観戦したことがある。勝利至上主義丸出しで、なかには敗戦に不満なのか試合終了後にまともな整列も礼もしない国があった。見ていて不快だった。また、武道だけでなく日本のスポーツ界全般にいえることでもあるが、体罰やしごきなどが未だにみられる。伝統を言い訳にして社会の価値観の変化に対応せず、古い体質を変えようとしないことを日本武道界の問題として挙げている。最近、日本社会の倫理やモラルの低下を憂え、武士道の必要性を唱えられることがある。しかし、武士道は日本で生まれたにもかかわらず、多くの日本人はそれについてよく理解しておらず、むしろその精神は日本の武道界においてさえも衰退しつつあるという。最初に疑問に思ったその題名には、そういったことに対する危惧の念が込められているようである。
『日本人の知らない武士道』
著者 | アレキサンダー・ベネット |
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出版社 | 文藝春秋 |
価格 | 本体850円+税 |
(平成25年11月号)