笹川 富士雄
昨年の11月以来、我が家ではもうじき17歳になる柴犬タロウの「介護」をしています。
毎日大変ですが、タロウが初めて我が家に来た日にみんなどんなに楽しかったか、タロウもどんなにうれしそうにはしゃいでいたか。息子の部屋で半年間一緒に飼った時に息子の部屋のベッド、書棚がぼろぼろになったけれども息子とタロウがどんなに幸せそうにしていたか。雪の日も雨の日も欠かさず散歩させた時にタロウがどんなに喜んでいたか。タロウをつないでいたひもがとれて逃げ出してなかなか捕まえられずに苦労していた時、決して遠くに行かず私たちが見える範囲の距離を保って「遊んでくれた」ことなど、大切な思い出に感謝しながら世話をしています。桜が咲くまでは生きていてくれたらいいなあと思っていましたが、今満開の桜をタロウに見せることができとても幸せです。
そんなときに書店で出会ったのがこの本です。「仲間に尽くすイヌ、喪に服すゾウ、フェアプレー精神を貫くコヨーテ」の副題がついています。帯には「感謝するクジラ、苦痛を分かち合うマウス…様々な逸話や科学的検証をもとに、動物たちの、人間に勝るとも劣らない豊かな感情世界を解明し…」とあります。これらの言葉に大いに興味をそそられ読み始めました。著者は動物の心、情動を研究する分野=認知動物行動学の第一人者です。
まず、情動(emotion)とは「行動をコントロールすることを手助けする心の現象で、これによって感情(feeling)を表現し行動するもの」。そして、感情とは「頭の中でのみ生じる心的な現象」と定義します。最初に系統的に動物の情動を研究したのはダーウィンでした。怒り、幸福、悲しみ、嫌悪、恐れ、驚きの六つの普遍的な情動を識別しています、また、複雑な社会を渡っていけるように、そしてこれらの情動はさまざまな状況に迅速に対応できるように導いてくれると主張しました。その後の研究者はいくつかの項目を付け加えました。すなわち、嫉妬、軽蔑、恥、きまり悪さ、さらに社会的情動として同情、罪悪感、誇り、羨望、賞賛の念、憤りなどです。
通常、研究者は一次情動と二次情動を区別します。一次情動は生得的で基本的な情動でダーウィンが述べた六つの情動がこれに該当し、意識的な思考が不要な素早い反射的なもので解剖学的には大脳辺縁系(とりわけ扁桃体)に配線されています。
二次情動はより複雑で脳内で処理され、どんな行動を取れば最善かなどといった対応に影響を及ぼすもので、後悔、願望、嫉妬などの繊細な情動が含まれ、大脳皮質の高次の脳中枢が関わっているものです。
認知動物行動学は3つのAに依存しています。すなわち、逸話(anecdote)、類推(analogy)、擬人化(anthropomorphism)です。逸話は野外に出てストレスのかからない自然な状態で動物の行動を観察して得られるもので、一種のデータとして扱われます。この本の中では学問的な記述の合間に、動物のさまざまな逸話が挿入されていて、それだけを読んでいても十分楽しめます。特に印象的だったものをいくつかあげますと、
一羽のカササギが車にひかれたらしく道端に死骸となって横たわっていた。他の四羽は穏やかに死骸をつつき一歩下がる。一羽がいったん飛び去ってから草を持ち帰ってきて死骸のそばに置く。もう一羽が同じことをする。四羽は数秒間祈るようにじっと立っていたあと、一羽ずつ飛び去っていく。…カササギの弔意?
2匹の生まれたばかりのマウスが下水溝にいるのが発見されたが、下水溝のつるつるした急な斜面をよじ登れないでいた。片方は弱っているようだった。何かのふたに水を入れて与えると、元気な方が飲みに来ようとしたが途中で食べ物を見つけ、拾って仲間の方に運んでいった。弱った方はそれにかじりついた。元気な方は弱った方を水のある方に動かしていき、両者とも水にありつき、それに力を得た二匹は立てかけた板を伝って下水溝から外に出ることができた…マウスの共感?
一頭のヒヒが車にひかれて死んだ。するとヒヒの一団が同じ車が通りかかるのを三日間道路脇で待ち伏せしていた。やがてその車が通りかかると、一頭のヒヒが甲高い声を上げ、それから皆で一斉に車に向かって石を投げつけフロントガラスを割った…ヒヒの怒り?
全長15メートル、体重50トンのザトウクジラが、カニ漁のワイヤーに絡まってその重みで噴水孔を海面に出すことができなくなった。何人かの勇敢なダイバーが救助するとクジラはダイバー一人ひとりに頭部をこすりつけ前びれをはためかせた…クジラの感謝?
こういった逸話を多く集めそれらを系統的に分析し、また、長年アフリカゾウを研究してきたジョイス・プールが述べたように「進化論的にも人間の誕生と同時に何もないところから突然情動が生じると考えるよりも他の動物に進化的な何かがあるはずだ」との考えも加えて著者は動物は豊かな情動を持っていると結論づけています。
さらに話を進めて動物の正義、共感、フェアプレーについて述べています。逸話をいくつかあげて、動物はこれらの能力を有しており、これらに基づいた「道徳」はその種が生存し繁栄する確率を高めると考えます。ダーウィンは人間の道徳は動物の進化のプロセスの産物と考えていたようです。現在の研究では「適者生存」の考え方は進化の第一の要因とは考えられなくなってきているそうです。つまり、動物は争うのですが、それよりも協力が動物の生存の鍵になる、この協力は行動の社会的基準、道徳規範に依存すると考えます。このように考えていくと情動は動物の生存率を上げるために進化を遂げてきた能力の一つと考えられます。
最後の章で著者はいかにこれらの知識を実践するか述べています。と言うか著者はこのことを言いたくてこの本を著したのだと確信しました。
実験室では…3つのRと呼ばれる職業基準に従う。動物に危害を加える手続きを改善し(refining)、使用する動物の数を減らし(reducing)、できる限り他の手段に置き換える(replacing)。それによって不必要な動物の苦痛、死を避けるべき
畜産場では…劣悪な環境、虐待を避ける。各人が自分の食べるものを意志を持って決定する。著者のように菜食主義による解決方法もある。
動物園では…動物の身体的ニーズだけでなく社会的、情動的ニーズも考慮して扱うべきだがいずれは廃止すべき、それによって節約された資金は野生動物や生息地の保護に当てるべし。
最後に人間だけの繁栄を目指すのではなく他の動物との共存を目指すべきで、動物を扱うときには「自分の愛犬にも同じことをしますか」と考えてほしい、情動は私たちの祖先からの贈り物であり、人間だけでなく動物もそれを受け取っていることを絶対に忘れないようにすべきと結んでいます。
最後の方では著者の極端とも思われる主張が述べられていますが、信条、動物への深い愛情がこもっていて説得力があります。この本を読んだあとには動物に対する見方、考え方、扱い方が大きく変わってくると思います。動物の好きな方に是非ご一読をお勧めします。
『動物たちの心の科学』
著者 | マーク・ベコフ |
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出版社 | 青土社 |
ISBN | 978-4-7917-6765-6 |
定価 | 2,400円(税別) |
(平成26年5月号)