五十嵐 謙一
毎日、訪問診療などで蒲原平野の真ん中を車で走り回っています。私が子供のころは見渡す限り田んぼが広がっていましたが、今では畑や宅地に変わってしまったところや耕作放棄地が増えてきており、少し寂しい気分になります。それでも、天気の良い日に診療室を出て、広々とした平野を走り回るのは気持ちの良いものです。そして車を走らせていると周りの山々が目に入ってきます。勤務医時代は登山にそれほど興味があった訳ではないのですが、毎日山々を眺めているうちに、だんだんとあの頂上に自分の足で立ってみたいと思うようになりました。そうして、弥彦山・角田山から始まり、五頭山、菅名岳、二王子岳、粟ヶ岳、守門岳、越後三山、谷川連峰、妙高山・火打山など、平野を取り囲んでいる山々を日帰りで登っていましたが、二年前から診療の留守番をお願いできるようになり、憧れの北アルプスへ行けるようになりました。
さて、今年はどうしようかと思っていたところ、山の雑誌で紹介されていたのがこの本です。1964年に刊行され94年に新版も出たけれど、その後は山小屋でしか販売されていなかったとか。それが今年2月に復刊されたのだそうです。
この本の著者の伊藤正一さんは、戦後間もない混乱期に三俣蓮華小屋の権利を買い取りましたが、その頃、北アルプス一帯に山賊が出没する、山賊は三俣蓮華小屋に住み着いているらしいとの噂が立っていたのだそうです。そこで、噂の真偽を確かめるため、伊藤さんが自分の小屋を恐る恐る訪れるところから、この本は始まります。「山賊」は、実は黒部源流域で暮らしていた猟師たちだったのですが、その「山賊」たちと打ち解けた伊藤さんは、彼らと協力しながら、北アルプス最奥の地の登山環境の整備を進めていきます。北アルプス登山の黎明期に「山賊」たちとの生活を通して語られる、埋蔵金伝説や山の生き物・バケモノの話、さまざまな怪奇譚、山小屋暮らしのあれこれなど楽しい話から、夏に凍死者が相次ぐという当時の山の厳しさまで、この本には幅広い「山の話題」が盛り込まれていて、読んでいるとまるで黒部の奥地に行ってきたような気持ちになるとともに、今を生きている私たちが忘れかけている自然に対する畏敬の念すらわいてきました。
山が好きな人はもちろんのこと、それほど興味の無い人でも楽しく読める本だと思います。私はというと、読み終えて、黒部源流に立ってみたいと思うようになっています。さあ、どうしよう!
『定本 黒部の山賊 アルプスの怪』
著者 | 伊藤正一 |
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出版社 | 山と渓谷社 |
定価 | 1,200円+税 |
(平成26年8月号)