大橋 美奈子
手早く化粧を落として鏡に映る自分と対峙する。もう若くはない自分がそこにいる。無我夢中で子育てをして、ふと気がついたら、もういい歳になっていた。もちろん少し寂しいけれど、今の私には自由な時間がある。温めの美泡湯に浸かり、時間を気にすることなく好きな本や雑誌をパラパラとめくる。今日は平穏な一日だった。ユンディが奏でる澄んだ音色を聴きながら、至福のときに包まれる。
本多孝好の作品を、すべての女性にお薦めしたい。彼は、慶応義塾大学法学部四年の時に、卒業文集に入れる小説を依頼されたことがきっかけでこの道に入る。その後、弁護士か作家か心が揺れていた時に、「眠りの海」で第16回小説推理新人賞を受賞し、作家になる決意をする。この経歴を聞いただけで、何となく彼が素敵に思えてきて、清流のようにさらさらと流れる流麗な文章に恋をする。ここで御紹介するのは、スタイルの異なる二作品である。
『ストレイヤーズ・クロニクル』はACT1に始まりACT3で完結する。彼の作品は穏やかで抑制された印象のものが多いが、この作品は娯楽性を追求したアクション長編だ。超人的能力を持つ若者四人が、謎の殺人集団「アゲハ」に挑む。バトルものでは癒されない!と思われるだろうが、是非一度手に取ってほしい。フィクショナルな設定にわざとらしさがなく素直に入り込める。血や残虐なシーンで恐怖心をあおられることもない。私もそんな先入観からしばらく敬遠していたが、岡田将生主演で映画化されたと知り、軽い気持ちで読み始めた。スマートでニュートラルなキャラクター、クールな台詞、スピーディーなアクション。冒頭から予感できる。かなり面白い。
彼らは、狂った大人達によって極秘に作り出された「異端」だ。愛する人もなく、生きる意味も知らない。未来を思うことすら許されない。根底に流れる切なさは、戦いが熾烈さを増すにつれ極限に達する。彼らを生み出した科学者達への報復、彼らを意のままに操る政治家との対決、やがて明らかになる「アゲハ」の正体と絆、すべてが複雑に絡み合い最終章に突入する。刹那的な戦闘の末、彼らが残したものは何だったのか。何もかも忘れて没頭できる作品。
次に『MOMENT』である。彼の初期の代表作とも言える短編集で、彼の魅力である詩的な世界を十分に堪能できる。私はこれを読んでファンになった。「命と死」という重いテーマは、読み進めるうちに息苦しくなりがちだが、彼独特のソフトなタッチが軽やかで爽やかな作品にまとめている。
病院清掃のバイトをする大学生の「僕」は、末期患者の最期の願いをひとつだけ叶えてくれる「仕事請負人」だ。その最期の願いに込められたのは、家族愛、恋心、深い悲しみ、恨み、死への恐怖心、そして覚悟だった。
大正生まれの老婦人。彼女の最期の願いは、「復讐」だった。彼女が信じた約束は、男から一方的に反故にされた。別の女と結婚し家業を継いだ男は、時代の動乱を見事に生き抜き成功した。病室のベッドの中で、彼女はある経済紙のグラビア写真を偶然目にする。そこには、ひ孫に囲まれた男の幸せそうな笑顔があった。彼女は、自分を裏切った男を探すよう「僕」に依頼する。満開の桜の下、ついに男との再会を果たした彼女は、心の赴くまま完璧なまでに美しい復讐を遂げる…このラストシーンでは、思わず涙する女性も多いだろう。
元日本兵。終焉を前にした混沌の中で、逃亡を企てた者は仲間の手で処刑された。その十字架を背負い生き続けた老人の最期の願いは、「贖罪」だった。彼が殺した兵士の遺族に用意周到に近づいた「僕」は、彼らの平凡で退屈な日常をありのまま報告する。戦争がもたらした狂気、そして、心に潜む「鬼」とは何か。最期に明かされる驚くべき罠とは…。
母にさえ決して涙を見せない少女。彼女は、修学旅行で出会った大学生にもう一度会いたいと願う。少女の純粋な恋心を傷つけまいと「僕」は奔走する。彼女に嘘の住所を教えた大学生を探し出し、嫌がる大学生に金を渡して懸命に説得する。そして、大学生の目の前で、ついに少女の本当の目的が明かされる。死を受け入れた人間の慟哭と命への叫びだった。
この世に生を受けたその瞬間に、人は死という宿命を与えられる。普段は意識しなくても、その日は必ず訪れる。その時に、自分は直視できるのだろうか。思いを残し消えゆくことを。そして、伝えられるのだろうか。愛する人に、想いのすべてを。優しく心に響く一冊。
『ストレイヤーズ・クロニクル』ACT1~ACT3
出版社 | 集英社文庫 |
---|---|
定価 | 560円(税別) |
著者 | 本多孝好 |
『MOMENT』
出版社 | 集英社文庫 |
---|---|
定価 | 540円(税別) |
著者 | 本多孝好 |
(平成27年6月号)