長谷川 尚
日本史の中でも、幕末から明治維新にかけては、現代の私たちの在り方に直接繋がってくる社会構造の大きな変化のあった時代で、私自身、子供の頃から、無意識的にこの時代に興味を持っていたのではないかと思うのですが、今から10年ほど前、学会で長崎を訪れた際、グラバー園に立ち寄ってから、この思いを明らかに意識するようになりました。
以前は夏休みといえば、今年はどこに行こうか? と、漠然とほぼ無目的に行き先を決めていましたが、それ以降は、幕末の人物や事件にゆかりのある土地を訪れることが多くなりました。道中、その土地や人物に関する書籍を読みながら現地に向かい、幕末遺跡や博物館を訪れるというパターンです。
昨年、京都国立博物館で開催された坂本龍馬展に行ってきました。展示物の多くは、坂本龍馬の書いた手紙なのですが、現代語訳のついていない草書の、そして一部は文語調の手紙が数多く陳列されていました。混んでいるのは覚悟していたのですが、見物の列の進行が非常に遅いこと。何でこんなに遅いのかと列の前を見てみると、声に出して読んでいる人がいて、非常に驚きました。その人のように原書を理解できれば、もっと面白いに違いないとは思うのですが、私の場合は、歴史小説、映画、ドラマ、博物館の展示を楽しむ程度で今の所は満足しています。
坂本龍馬はその時代の最も人気のある一人と思いますが、越後にゆかりのある人物は、河井継之助を除くと、メジャーなストーリーにはなかなか登場してきません。しかし、実際にはどうだったのであろうかという興味は常々もっていて、昨年やっと、その疑問に答えてくれる書籍を見つけました。
NHKのブラタモリ新潟編が放送された翌日、久しぶりに思いついて出かけたみなとぴあの書籍売り場で見つけたのが、渡辺れいさんによる『最後の決断 戊辰戦争 越後四藩の苦悩』です。
王政復古の大号令、小御所会議、鳥羽伏見の戦いを経て、攻め上がってくる薩長を主体とする新政府軍に恭順するのかという決断を、すべて藩が迫られたわけですが、越後の諸藩においては、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟に参加するのかという近隣諸藩からの差し迫った圧力もあり、どの藩も深い苦悩をかかえていたわけです。本書のテーマは、高田藩、長岡藩、新発田藩、村上藩の最後の決断にいたる苦悩です。越後には中小あわせて11藩の他に、会津藩や桑名藩の飛び地や幕府領もあったそうで、特に外様大名であった新発田藩は、藩の歴史の中で、周囲の有力藩から相当の圧力を受け続けていたとのこと。また、高田藩や村上藩は譜代大名であったがゆえに幕政への参加に伴う経費がかさむなどして、慢性的な財政赤字があったとのこと。西から迫ってくる新政府軍、北東に位置する会津藩や庄内藩の圧力を感じながら、各藩すべてが様々な事情を抱えつつ、藩内の主戦派と恭順派のせめぎ合いの末、最後の決断を下していった様子が、詳細に記述されています。恭順したとしても、今度は、新政府軍の先鋒として奥羽越列藩同盟軍と戦わざるを得ず、どちらの道を選んでも非情です。長岡藩の河井継之助が新政府軍との戦争に舵をきる決断をした最終的なきっかけは、新政府軍東山道鎮撫総督府軍監岩村精一郎との屈辱的な慈眼寺談判の不成功と言われていますが、河井継之助はすでに主戦を決めていたにもかかわらず、主戦か恭順かが定まっていない長岡藩の藩論をまとめるために、あえて辱めをうけるような形での会談決裂を演出し、藩の方針を主戦へ決定するために利用したという興味深い著者の推論も記述されています。
さらに、新潟市も戦場となったわけですが、新潟高校前の戊辰公園内にある追悼碑に名前を刻まれている米沢藩色部長門の最後についても記されています。関屋のあたりを中心に戦場となったそうです。
越後での北越戦争を経て、会津戦争へと進み、箱館戦争の終焉をもって戊辰戦争は終結した訳ですが、やはりその中において、越後諸藩の決断は、単に、奥羽越列藩同盟に加わったか、加わらなかったか、裏切ったか、などという単純な言葉では表現できない苦悩の結果下されたものであることがよく分かる興味深い一冊でした。
著者の渡辺れいさんですが、新潟市のご出身で、県内の銀行にお勤めだそうです。他にも、新潟の歴史を主題とした作品を書かれているようです。
『最後の決断 戊辰戦争 越後四藩の苦悩』
著者 | 渡辺れい |
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出版元 | 新潟日報事業社 |
発行日 | 2012年10月1日 |
定価 | 本体1,400円 |
(平成29年7月号)