中村 守也
アドルフ・アイヒマンをご存知ですか。ヒトラー政権下のドイツの国家保安本部第Ⅳ局B4課(ナチスの秘密警察ゲシュタポのユダヤ人課です)の課長だった人です。中級の役人なのですが、この人が担当していた職務がすごい。「ユダヤ人問題の最終解決」。解決といっても、絶滅収容所のガス室送りにするということです。つまりアイヒマンは、数百万人のユダヤ人が虐殺されたホロコーストにおいて中心的役割を果たした人なのでした。
アイヒマンは、ドイツ降伏から約15年経った1960年、南米アルゼンチンに潜伏しているところをユダヤ人国家イスラエルの謀報機関モサドに発見され、イスラエルに強制連行されます。
そして、人道に対する罪等により裁判にかけられるのですが、この裁判の中で、アイヒマンは、「自分は上官の命令に従っただけ」と、戦争犯罪人おきまりの弁解を繰り返すんですね。でも、イスラエルの裁判所がそのような弁解を認めるはずもなく、死刑判決が下されます。
ユダヤ人にとってアイヒマンは憎んでも憎みきれない男であり、検察官も裁判の中で、アイヒマンを、極悪非道の怪物、倒錯したサディストとして描こうとしました。
ところが、この裁判を傍聴していた、自らも亡命ユダヤ人である政治哲学者ハンナ・アーレントは、裁判傍聴記『エルサレムのアイヒマン』(邦訳は、みすず書房刊)の中で、アイヒマンは、上司の指示に従う生真面目で小心者の普通の小役人に過ぎなかったと指摘します。これは、ユダヤ人などから激しい非難を浴びることになりました。
ところで、アイヒマンが裁判にかけられていたころ、アメリカのイェール大学で、一人の心理学者が、心理学史上最も有名な実験の一つである服従行動についての実験を行います。これが通称「アイヒマン実験」と言われるもので、今回紹介させて頂く『服従の心理』はその実験の報告書です。
さて、実験はこのようなものです。記憶と学習に関する科学研究だと称して、一般市民から被験者を募ります。応募してきた市民を、先生役と学習者役に分け、学習者役は電気椅子に座らされて記憶テストを受けさせられます。学習者役が答えを間違えると、先生役は電撃発生器のスイッチを押すことになっており、間違えるたびに電撃のレベルは大きくなっていきます。
実は、この実験で調べられているのは先生役の行動なのですが、実験の結果は驚くべきものでした。非常に多くの先生役の被験者が学習者役が苦痛を漏らし、悲鳴を上げ、最大レベルまで電撃を加え続けたのです。誰からも強制されず、単に実験者から「実験を続けて下さい」と促されただけで。
恐ろしいのは、先生役の被験者たちの多くは、自分たちのやっていることが間違っていることを十分に分かっていたという事実です。
人間は、実は、持っている信念や価値観や知識や感情にかかわらず、自分自身の行動すら十分にはコントロールできない存在なのだということがよく分かります。
著者は書いています。何かを思ったり、言ったりすることと、悪しき権威に実際に反抗することとの間には、信念や価値観を行動に変える能力が必要となる。考えを行動に変えない限り、主観的な感情など目下の道徳的な問題にはほとんど関係ない、と。
興味を持たれた方には是非実際に手に取って頂きたい名著です。
『服従の心理』
著者 | スタンレー・ミルグラム |
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訳者 | 山形浩生 |
出版 | 河出書房新社 |
定価 | 本体3,200円(税別) |
発行日 | 2008年11月30日初版発行 |
(平成29年10月号)