小林 晋一
読み止して本棚に眠っていた、この本を急遽要約いたしました。
この本の中でも述べられており、ほかでもよく見聞きすることであるが、ここ数年の日本の状況は戦前の感じに似てきているといわれる。戦後民主主義が絶対正しいとはいわれないが、それ以前の時代に比べればまだましなほうでなかったか、ましなものがよりましな方向へ向かうのはいいが、逆に悪い方向へ向かっている。より大日本帝国回帰型に変わるのではないかという危惧を感じる。戦争を知らない世代の人たちが国のトップに立つと戦争に走ってしまう。日中戦争、太平洋戦争突入時のリーダーは日露戦争の経験者ではなく、現在のリーダーも太平洋戦争の悲惨さや戦中戦後の苦しみを知らない人たちになっている。
この本は、こういった状況のなかで、昭和史に多くの著書を持つ保阪正康、半藤一利両氏がジャーナリズムの歴史、その反省と今後のありかた、本来あるべき姿と使命、国民(民衆)との関わりなどについて語りあったものをまとめたものである。
昭和11年の2.26事件以降、日本社会は偏狭な民族主義に染まった国家へと変質していく。昭和12年7月、日中戦争以降「聖戦完遂」が国家共通語となり、新聞、雑誌はその方向での編集しか認められなくなった。加えて新聞は競って戦勝の気分を盛り上げ国民を煽る記事を掲載し続けた。新聞は売上をのばし、軍と一体化し、この間ジャーナリズムは国家の宣伝要員であった。昭和12年9月、内閣情報部が新設。12月、軍も大本営内に報道部を作る。昭和16年1月、言論を指導する新聞紙等掲載制限令。昭和18年、日本出版会という軍の御用組織が作られ出版社への用紙割り当ての決定権を握った。昭和改元~昭和20年8月の昭和史20年間において、言論と出版の自由がいかにして強引に奪われてきたことか。それを知れば、権力を掌握するものが、その権力を安泰にし、強固にするために拡大解釈がいくらでも可能な条項を織り込んで法をつくり、それによって自由を巧みに奪ってきた。権力者はいつの時代でも同じ手口を使うものなのである。
教育の国家統制にはじまり、あらゆる面で言論が不自由となり、さらにテロの頻発。こういった順で社会がおかしくなってくる。今日の日本はどうか、教育基本法を作って教育を改革、修身教育の復活。情報の統制に関しては個人情報保護法、一億背番号制、共謀罪の成立など不安材料がでてきている。ジャーナリズムは本気になって言論の自由を考えなければならない。
国家が個人を弾圧しようとしたら断固として拒否しなければならない。このための役目を負託されているのがジャーナリズムである。負託されている側はその責任を自覚しなければならない。市民の側にもジャーナリズムにその権利を負託していることに対する責任と自覚が必要である。ジャーナリズムは今の社会が市民的権利を保障する空間であるか否かを常に感性に富んだ目で見ていなければならない。市民的権利に制限を加えるよう主張する政治家や政治勢力は必ず偏狭な国家主義、一面的な民族主義、口先だけの愛国主義をとなえる。いずれ必ず言論弾圧の動きもでてくる。ジャーナリストは一個人としてジャーナリストとしての衿持を正す、誇りを持つだけでは不十分である。歴史的事実と照らし強制的な法の縛り、情報発信の一元化や表現の干渉といった兆候がみえたら警戒しなければならない。国家権力からの圧迫に対しどのような抵抗の態度をとるべきか、歴史的事実を正確に読み解く目を養い、正確な情報をわかりやすく、国民がだれでも分かるように報道することである。これからは国家権力の圧迫に対して思い切って抵抗するか、それとも亡命を選ぶかという厳しい選択を迫られることがあるであろう。その時こそ、ジャーナリストは国家の宣伝要員に堕したあの時代の史実を検証した上で自らの立場を明確にすべきであろう。
最も大切なものは言論の自由であると述べられている。
『そして、メディアは日本を戦争に導いた』
著者 | 保阪正康 半藤一利 |
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発行所 | 東洋経済新報社 |
定価 | 本体1,500円+税 |
発売日 | 2013年10月24日 |
(平成30年3月号)