斎藤 さゆり
著者のホーキング青山さんは「先天性多発性関節拘縮症」で車椅子生活をしているお笑い芸人である。今は介護福祉施設の経営者としても仕事をしているそうだ。私がこの人を知ったのはビートたけしとの対談「笑え!五体不満足」という本を読んだのがきっかけである。あの本が大ブームになっていた当時、障害者である私(下肢不自由2級)の立場からも正直なところ大変もやもやしていた。しかしその時はまだアマゾンレビューも今ほど知られておらず「なんだかなあ」と感じても抱え込んでいるしかなかった。そのもやもやをふきとばしてくれる痛快な本であった。
この「考える障害者」もさっそく読んでみた。非常に真摯で誠実な本である。O氏の不倫騒動、やまゆり園殺傷事件などの他、「社会進出」「バリアフリー化」等についても非常にバランスのとれた考察をしている。バリアフリー化を際限なく進めることは現実に無理でないか、はたしてどこまで税金等の公費を投入してよいものか、障害者と健常者のかかわりにおける問題点(特に身体障害の場合、人の手を借りなければならないが、その援助・介助者との関係性など)についてていねいに考察している。
健常者と障害者の関係を良いものにすることが一番の目的かと思う。
著者の誠実さは障害者の側の問題もきちんと取り上げていることからも見て取れる。例えば以前、格安航空機で障害者の搭乗拒否事件があった。私などは表面的にしか知らなかったが、背景を知り「それはいくら何でもごり押しだろう」と思った。O氏が階段のあるレストランで車椅子を抱えて登らせろと要求し、断られると実名でそのレストランを攻撃したのとほぼ同じような出来事であったという。そういう例をあげて「どう考えても無理のあることを強要することで障害者の立場は少なくとも良いほうには変わらないと思う」という考えを率直に語っている。
そして、そういうことが起こるたびに「まあ気の毒な人たちなんだろうけど関わると大変だ」という意識を健常者の側に持たせてしまうのは障害者の責任である、と著者は言う。
全く同感である。これは著者が多くの健常者と日頃自然に接しているから言えることだ。
「障害者を守ろうとする家族やボランティアの過剰な『囲い込み』(これは私が著者の言葉を言い換えさせてもらったのだが大意は間違っていないはずである)が障害者を弱くする」などという言葉は生半可な覚悟でいえることでない。この人の誠実さは次のような言葉によく表れていると思う。─「障害者のためにどこまでお金を使えるか」も、「いくら出た」という金額だけでなく「こちらの思いを果たしてわかってくれているのだろうか」という障害者側の思いと「予算はどうがんばってもこれしか出せない」という健常者側の思いにすれちがいがあったり、共有できていなかったりするから、障害者側はいつまでも権利を主張せざるを得ないし、健常者側は「勝手なことばかり言いやがって」となってしまう。このことをもし(略)もっと胸襟を開いて語り合って理由もはっきりわかれば、たとえそのときは障害者側の望む結果にならなかったとしても、「残念だ」とは思っても納得はできるだろう。これこそほとんどの障害者が望む社会参加の第一歩ではないだろうか。
(略)だからこそ障害者こそ心を開くべきなのではないだろうか。─(ここまで引用)
引用が長くなってしまったが、「障害者」を「高齢者」に置き換えることも可能であろうし、今喫緊の課題へのヒントもここにあるように思う。
著者は繰り返し「障害者がもっと外に出て、ありふれた存在になるよう努力する」必要性を訴えている。そしてそこには「愛嬌」も必要だ、とも。当然だが手を貸してもらえたらお礼を言う。なるべく笑顔を人に向ける。やり方がわからないためにちょっと危ない、あるいは不要な「手助け」をしようとされたら「ありがたいけれど、それは必要ありません」と伝えること。実際、電動車いすなのに無理やり押してくれようとする人も結構いるそうだ。
この著者の姿勢を形成するにあたっては親御さんも「立派」というより「良識ある人」であったことが推察される。お父様が「自分が若いころは外人だって珍しくてじろじろ見たものなあ」と言われたとのこと。なかなか困難であるが「珍しくもなくなること」「必要以上に気負わないこと」が目標である、と。
ただ、どの問題もデリケートなので短絡的な「答え」は出していない。
高齢化に伴い「障害者」の状態になる人も増えるだろう。財源もマンパワーも無限ではない。この本はぜひ多くの方に読んでいただきたい。なお、「障害者」という言葉の表記についても「障がい」と置き換えることへの疑問も私の思いと全く同じであるので、この一文では表記は「障害者」とさせていただいた。
『考える障害者』
著者 | ホーキング青山 |
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出版 | 新潮新書 2017年12月20日初版 |
定価 | 720円+税 |