櫻井 浩治
今更その略歴を紹介するまでもないことだが、元県立がんセンター新潟病院副院長であった整形外科医蒲原 宏先生は、ご存知のように日本医史学会理事長を長く勤められ、新潟日報文化賞や毎日出版文化賞を受賞された医学史、洋学史、科学史学の第一人者であった。新潟においても医学教育をはじめとする県下の医事衛生史の研究調査の先駆者であり、今尚さまざまな史学の指導者として頼りにされている存在である。
さらにまたその博識ぶりは本医師会報の随想欄で知られている通りであるが、一方で「ひろし」の俳号を持つ俳人として、既に幾冊かの句集を出され、昭和の後半、中田みづほ(瑞穂、新潟大脳研究所脳神経外科学、俳誌『まはぎ』主宰)、高野素十(与巳、新潟大医学部法医学、俳誌『芹』主宰)の両先生が相次いで亡くなられた後、俳句愛好者の拠り所となる俳誌をと、両先生門下有志により昭和52年に発行された新潟市亀田に発行所を置く俳誌『雪』の主宰として平成17年より伝統俳句の伝承に努めておられる。
この蒲原先生がこの度、『畑打って俳諧国を拓くべし─佐籐念腹評伝─』と題する俳句関連のB5判・全700頁余の大著を上梓された。
この大著は、俳誌『雪』に同じ表題で、平成25年(2013)1月号より平成30年(2018)9月号まで、先生が89歳より94歳に至る実に5年9ケ月に亘って連載されたものを、連載時と同じ体裁を保ちながら一冊に纏めたものである。
評伝の対象になった「佐藤念腹」は、本名は佐藤謙二郎と言い、白鳥が飛来する瓢湖と五頭山麓の間にある新潟県北蒲原郡笹神村笹岡(現阿賀野市笹岡)に代々海産物商を営む佐藤家の二男として明治31年(1898)に生まれ、長男が夭逝していたので尋常高等小学校卒業後は家業を継ぎ、その傍ら「念腹」の俳号で句作に熱中し、当時一句入選すれば赤飯を炊いて祝ったと言われた高浜虚子主宰の句誌『ホトトギス』に15歳より投句。長じて新潟市近辺の仲間作りに奔走する。
そして昭和2年30歳の時に、両親、新妻、弟妹を引き連れ、一家を挙げて開拓移民としてブラジルに渡ることを決意。挨拶に訪れた虚子より、この著書の副題となっている一句を含む[東風の船着きしところに国造り][鍬取って国常立の尊かな][畑打って俳諧国を拓くべし]の3句を揮毫した短冊を「はなむけ」として贈られ、以降渡伯直後に移動列車転覆事故で農業学校を卒業したばかりの17歳の弟を失いながら、未開の原始林を切り拓きコーヒー園を始め、数々の事業に挑戦し、牛飼いに至って漸く落ち着く。
他方、虚子の提唱する「花鳥諷詠」を対象にし「客観写生」を作句の姿勢とする俳句理念をブラジル移民の邦人間に広めようと、遠くアマゾン近くまで宣教師のごとく句会を開いては指導する自称「行脚」を、昭和54年(1979)80歳で死の床に就くまで続けた。当地の新聞の読者俳句欄の選者となり、俳誌『木陰』を創刊し、遂には直接には200人、間接的には6000人とも言われる門人を育て、死後終焉の地となったパウルー市では、新たに開発された住宅街の一つの通りを「ネンプク・サトウ街」と命名して念腹を顕彰した、という「ブラジルの虚子」とも称された人物である。みづほ先生は「念腹門下であることは一つの社会人としての誇りでもあったらしい」と述べ、ポルトガル語で書かれた念腹評伝で、念腹の長男風太郎氏はポルトガル語の序文で、「念腹の文学的貢献は、多文化国ブラジルの詩人・読者・研究者にまで広がる質の高さを持つ」と父念腹の業績を讃えている。
このような新潟の片田舎出身の一移民俳人の壮烈な80年の生涯を、彼を取り巻く人間模様に社会情勢をも加え、膨大な資料を駆使して記録し、解説したのが、この一冊なのである。
蒲原先生は、かねて尊敬し、注目していた念腹について、「いつかしかるべき所か俳人の誰かが、この日本が世界に誇るべき偉業を成し遂げた念腹の生涯について書き残してくれるだろうと期待していたが、没後30年を経てもその気配さえない」のに業を煮やして、自分で書こうと決心されたのだという。
念腹の偉業に感服したのは蒲原先生だけではない。念腹の生前時に、同じような感慨を持っていた文化人が居たのである。
それは、念腹が関係した句集の出版に2度に亘って関わり、戦後の朝日新聞のコラム「天声人語」の筆者として天下に名を馳せた冬虚という俳号を持つジャーナリスト荒垣秀雄である。荒垣は「地球の反対側の異郷ブラジルにこんな立派な俳句王国を築いてくれた念腹さんの文化的功労に対して祖国日本はそこそこの報いをしなければならぬと私は思う」と書いているのだ。
そこにはこれも一評論家だった暮しの手帳社の花森安治も、「ブラジルの移民を失望させてはならぬ、祖国日本を信頼させねばならぬ」と出版を引き受け、校正・製本に力をそそいでくれたとも記されている。日本には義を持って行動する人たちが未だ居た時代である。
このように、この本を一読すると、念腹がかかる苦難の道を自らに課して、遂には俳句王国建立の偉業を達成するに至るには、勿論彼自身の持つ資質と努力によることは云うまでもないことだが、郷土の先輩移民や、総領事官、経済使節員等々、実に多くの各界の社会的な実力を持つ俳人たちとの出会いがあり、彼らの協力と支援があったことが良くわかる。先生がこの著書で書きたかった事の一つは、こうした俳人たちが示す人間信頼と愛情の結びつきだったのではないか、とも考えてしまう。
中でも素十、みづほの両先生の存在が大きかったことは、念腹が自ら、二人が虚子に次ぐ自分の師であると述べていることからも判るのである。
特にみづほ先生との関係は、『ホトトギス』発行所から医学士だという情報しか得られないまま、「新潟市俳人醫学士 みづほ様」という宛名だけで、東京より新潟医科大学の外科学教室助教授に赴任して来たばかりの、念腹より5歳年上で29歳のみづほ先生の自宅へ届いたという、運命的とも言える出来事によって生まれたものである。後にブラジルへの移民を考え直せと、真剣な諫めの手紙を留学先からみづほ先生に書かせたような、肝胆相照らす、正に蒲原先生が云われる相手の為に我が頸を差し出しても良いと言う刎頚の友となるきっかけとなった。みづほ先生留学後は、みづほ先生の口添えもあって素十先生と親交の度を一層深め、虚子とも近くなり、移民後の念腹の俳句行脚にもつながっていくことになる。
こうしてみると、この大著の書き出しのプロローグに、蒲原先生が念腹とみづほ先生の出会いを置いて語り始めた意図が分かるような気がしてくる。
念腹にとってみづほ先生と直接行動を共にし、師事し得た大正11年春よりみづほ先生がドイツへ留学された13年暮れまでの3年間の俳句に明け暮れした熱い日々は、生涯の精神的財産になったに違いないのである。
このようにこの著書の特徴は、念腹というブラジル開拓者にして俳句の伝道者として歴史に残る一人の生涯を描くに当たり、念腹を陰に陽に支え関係した実に多数の多方面の職業に従事している俳人達を採り上げ、それらの群像描写を、俳句と書簡や手記、あるいは新聞報道などの資料の原文提示や写真の豊富な掲載と、時代的背景をも重ねて記載することで、より鮮明に浮き彫りにするように配慮されていることにある。
例えば念腹が経験した移民開拓の苦闘は、念腹が一時帰国した時に水原高校で話した「苦労貧乏の果てに異国の地で死んでいった仲間の墓に毛布を巻いて抱きついて当時の苦労を想い出して泣いているのが移民の現実の姿だった。ブラジル開拓移民を孤独から少しづつ開放し、お互いを結び付けていったのが自分の俳句行脚であった」と話したことを、水原の外科医でみづほ先生の絶対的な崇拝者家田三郎(小刀子)先生の記録で知る事ができるのである。
事々左様に、この著書がもたらす資料の細やかさは、枚挙に切りないのである。密林を伐採し、根を掘り返し、荒野を開拓した念腹のように、ずっしりとしたこの大著を紐解いて行くと、蒲原先生の紹介とその人たちの俳句によって紡ぎ出された生活の記録や信書によって、その人たちが生きた世界や念腹の住んだ世界を再体験でき、更には虚子や素十、みづほ、念腹ら、俳句の達人の句や選句に出会うことにより、「花鳥諷詠」と言われ「客観写生」と言われた虚子の俳句の真髄に触れることが出来るのだ。
かつて蒲原先生が『新潟県医学史覚書』(平成5年)を出版された折、当時の慶応義塾大医学部大村敏郎客員教授(医学史)が本の帯に、蒲原先生は「自らの目で研究資料を確かめられ」「克明に記録を取り続け、世に忘れられた医師たちの業績を紹介してこられた」と評されていた。
この大作でも、俳句で真実を語らせ、手紙や記録をそのまま、特に重要なもの、入手困難なものは全文を掲載することで臨場感とその人たちの言い分をきちんと伝える、という方法を採られている。しかも写真が多い。
みづほ先生にしても若いときから晩年のものまで、良く集められたと思うほどの影像が掲載されている。またみづほ先生の描かれた同僚をスケッチした似顔絵もみることができる。
大正から昭和にかけての大きな社会的出来事にも触れながら、虚子来港時のホトトギス系の伝統俳句を中心にした亀田、長岡、出雲崎に広がる新潟県下の俳句界の動きや、念腹が虚子三回忌に合わせての日本への里帰りした時の全国の俳人らの様子、あるいは虚子の娘の立子氏や素十先生の訪伯時のブラジルの俳人達の動向も、細かく資料を集めてつぶさに解説されている。
先生はこの評伝を纏めるにあたって、少なくとも平成20年(2008)には在ブラジルの一女性に調査協力を依頼されていたことがエピローグの彼女からの書信で分かる。従って資料取集は、それ以前から始めておられたのであろう。
そして念腹の業績の証言者が消滅しかかっている現実に、急遽集めた資料を整理し、書き下ろされたのであろう。それも『俳誌「雪」の雑詠の選、編集、発行、毎週の句会の出席、それに新潟大学医学部での医学史の講義、社会教育、宗教関係の講演、医学史学会の報告、医学関係の月刊雑誌に20年前から連載している「世界整形外科史」の執筆をこなしながらの作業であった』と述懐されている。
「言訳がましいことを言わせていただければ」と言われているが、本当は是よりはるかに多くの仕事をされているのである。愚生の知る限りでも、例えば俳誌『雪』には毎号巻頭言を書かねばならない筈だったし、『雪』関連の地域の句会にも指導のために招聘されて参加されているし、商業俳句誌『俳句』(角川文化復興財団刊)が企画した素十をめぐる対談にも出席されていたし、医師会報への随想も随分執筆されていた。
つい最近の平成30年(2018)5月に神戸で開かれた第91回日本整形外科学会学術総会(会長新潟大学遠藤直人教授)での、日本の整形外科史にかかわる基調講演も、94歳を半ば過ぎた時であり、『雪』誌に連載中の念腹評伝が最終段階に差し掛かった頃のことであった。
蒲原先生のこの大著について、その出版に多大な尽力を尽くされ、それこそ全文をここに載せて本著を紹介したいほどの名文で「跋」を書かれた長谷川和宏(隼人)博士は、この著書について「何処を開いても教えられ、学ぶことの出来る座右の書だ」と愚生につぶやかれていたことを改めて思い出す。
一人の人間が織りなす史学の研究に生涯の大半を捧げ尽くしてきた蒲原先生のこの一冊は、まさに先生のこれまでの史学研究態度を貫いた渾身の大著であり、古典として後世に残る一書だと確信している。
喜寿の念腹
『畑打って俳諧国を拓くべし─佐籐念腹評伝─』
著者 | 蒲原 宏 |
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出版 | 大創パブリッシング |
定価 | 3,000円+税 |
(令和2年12月号)