内山 直樹
ある時ふと、幸福感が足りていないように感じたのです。
医師といえばそれなりに社会的地位も高く、羨まれることもなきにしもあらずの立場。なのにこの満たされない感覚はなんだろうと漠然とした違和感を抱えていたところ、目がテンの知見に出会いました。
人間の幸福を決定するのは50%が遺伝子による設定値、40%が意図的な行動で、「裕福か、貧乏か」「健康か、病気がちか」「器量がいいか、人並みか」などの生活環境による違いは合わせてわずか10%しかないらしいのです。(ソニア・リュボミアスキー著『幸せがずっと続く12の行動習慣(日本実業出版社)』)
では私たちはどうしたらより幸福な日々を送ることができるのでしょう? 50%を決める遺伝要素は変えようがありませんし、がんばって働いて収入を倍にしたとしても、それは10%のうちのさらにごく一部にすぎない。となれば焦点をあてるべきは残り40%の「意図的な行動」ということになります。
そこで、幸福をもたらす行動とやらの内容を自分なりに探究したいと思い、哲学、宗教、脳科学、幸福学といった書物の幸福に関する部分を読み進めていったところ、脳科学や幸福学の比較的新しい学術データと、大昔から伝わる哲学や宗教の教えに合致点が多いことに気づきました。特に原始仏教の教えは実にスルドく、釈尊という人はすごい内容を悟っちゃったんだなと感嘆しながらも、科学者の端くれとして「これって本当なの?」と腑に落ちきらない部分もあり……と、そんなときに出会ったのがこの本です。
ロバート・ライト著『なぜ今、仏教なのか』。マイルドな邦題がつけられていますが、原題は「Why Buddhism Is True」と挑発的。僧侶どころか仏教徒ですらないアメリカ人の科学ジャーナリストが、実験データと自らの瞑想体験を元に持論を展開していきます。
まず「なぜ快楽はしだいに薄れるのか」との命題。ブッダは「人生は苦であり、それは欲があるからだ」と語っていますが、科学的整合性はあるのでしょうか?
以下、要約の上引用。
“ドーナッツが目の前にあればすぐにどんなにおいしいだろうと想像するが、食べた直後にもう一つ欲しくなることや、しばらくして糖分による高揚がおさまると疲れやいらだちを覚えるだろうことは想像しない。
なぜ快楽はしだいに薄れるのか?
私たちは自然選択によって、祖先が遺伝子をつぎの世代に伝えるのに役立ったこと─食べる、セックスする、ほかの人の尊敬を得るなど─をするよう設計されている。理にかなった設計の基本方針が3つありそうだ。
1.こうした目標を達成することで快楽が得られなければならない。
2.快楽は永遠につづいてはならない。快楽がおさまらなければ、ふたたび快楽を求めることはない。はじめての食事が最後の食事ということになる。セックスも同じで、一度の交わりのあと一生そこに横たわって余韻にひたっているのは、つぎの世代に大量の遺伝子を伝えるための正しい方法とはいえない。
3.動物の脳は「快楽は目標に付随して起こる」ことに集中するべきで、「快楽はそのあとすぐ消失する」ことに集中してはならない。1に集中すれば、食べものやセックスや社会的地位などをまじりけなしの純粋な熱意で追及するだろうが、2に集中すると、矛盾した感情が生まれるおそれがある。たとえば快楽を手にしたとたんそれがすぐに消えてしまい、もっと欲しいという渇望が残るのなら、そこまで必死になって快楽を追求してなんになるだろうと考えはじめるかもしれない。”
“ブッダの言うとおり快楽は一瞬で消えうせる。そしてたしかに不満が残る。快楽がすみやかに消えるように設計されている理由は、つづいて起こる不満によって私たちにさらなる快楽を追求させるためだ。しょせん自然選択は私たちが幸せになることを「望んで」はいない。私たちが多産であることを「望んで」いるだけだ。そして私たちを多産にする方法は快楽への期待を狂おしいものにしつつ、快楽そのものは長くつづかないようにすることだ。”
“すべての根底にあるのは幸せの妄想だ。心理学者が快楽のランニングマシンについて記述しはじめるよりずっと前に、ブッダにはそれが見えていた。”
なんだかゾクゾクしてきませんか?
さらに「無我」について。ブッダは自己という概念は想像上の誤った思いこみで、実態をもたないと説いていますが、実は近年の脳科学でも、行動を起こそうと「決意」したことを本人が自覚する前に、すでに脳は行動を起こしていると考えられるようになってきました。僕らが水を飲むのは「飲む」と自我が決めたからではなく、「飲む」ことはすでに何かが決定しており、「自我」は一瞬遅れてそれを追認した挙句、「自分が決めた」と錯覚しているに過ぎない。あたかもCEOのように自分自身をしっかりと掌握している「自我」なるものは、どこにも存在しないようなのです。
本書では分離脳患者での実験、ベンジャミン・リベットらが行った脳活動レベルをモニターする実験、自己中心性バイアスに関する知見などを紹介した後、「モジュール説」について解説しています。以下引用。
“心理学、とくに進化心理学の分野で一般的になりつつある答えは、心が「モジュール」的な構造をしているというものだ。この考え方では、人間の心はたくさんの専門化されたモジュール─状況を判断して対処するための機能単位─からなっていて、人の行動を決定づけるのはこうしたモジュールの相互作用だ。そして相互作用の大半は本人が意識することなく起きている。”
モジュールは「自己防衛、配偶者獲得、配偶者保持、協力関係、親族養育、社会的地位、病気回避」に分割されます。
たとえばロマンス映画を観た後、人は自分では意識していないものの、短期的に人ごみ嫌いになり、静かな場所を好むようになるそうです。これは配偶者獲得モジュールが優位になり、ライバルがおらず、親密な行為に及びやすい場所を求めていると説明されています。逆にホラー映画を観ると自己防衛モジュールが優位になるため、無意識のうちに人ごみを好むようになるとのこと。
観た映画のジャンルに操られるようにして、いつの間にか人ごみが好きになったり、嫌いになったりする私たち。「確固たる自我」の存在など、はなはだ疑わしいことになります。
“仏教思想と現代の心理学は次の点に意見が収束している。人生には采配をとる単一の自我やCEO自己は存在しない。一連の自己たちが順番に采配をとり、ある意味でコントロールをにぎっている。自己たちがコントロールをにぎるのに感覚を利用しているなら、状況を変える一つの方法は、日々の生活で感覚が演じている役割を変えることだ。マインドフルネス瞑想ほどそれにふさわしい方法を私は他に知らない。”
瞑想を深め、自己が存在しないことを確認することによって、はじめて自分が見えてくる。逆説的な文言になってしまいますが、そうとしか言いようがありません。
『マトリックス』という映画をご存じですか?主人公のネオ(キアヌ・リーブス)は、自分の住む世界が夢の世界であると気づきます。自分が日々暮らしていると信じきっていた生活は精巧な幻覚にすぎず、現実の肉体はぬめぬめした液体に包まれ、棺桶のようなスペースで囚われていました。
ネオが迫られた選択─妄想を生き続けるか、現実に目覚めるか─は有名な「赤い薬」のシーンで描かれています。ネオの夢に入りこんできた反逆者集団のリーダーは告げました。「きみは奴隷だ、ネオ。他の者たちと同じように、生まれたときから心を縛る牢獄にいる」
牢獄はマトリックスと呼ばれますが、それについてリーダーから具体的な説明はありません。全貌をつかむ唯一の方法は「自分の目で見ること」。リーダーは赤と青のふたつの薬を差し出します。青い薬を飲んで夢の世界に戻るか、赤い薬を飲んで妄想の覆いを突き破るか。ネオは赤い薬を選びました。
このエピソードは西洋で仏教を信じる人々に「自分の瞑想体験と酷似している」との驚きをもって迎えられ、『マトリックス』は一躍「ダルマ(法を意味する仏教用語)映画」として知られることになります。多くの瞑想者は、自分がかつて見ていた世界は現実を激しく歪めた虚像であり、瞑想によってはじめて物事が明晰にみえるようになったと感じているそうです。
私のようなお調子者はそんな話を聞くと、すぐに「自分も挑戦したい!」と気がはやるのですが、現実世界で赤い薬を飲む、つまり釈尊が解く世界観を理解するには、ある程度の期間、無心に瞑想に取り組む必要があるとされてきました。これが私を含めほとんどの現代人が「忙しくて無理!」と却下してしまう理由でしょう。
しかし本書で紹介されているように、釈尊の説いた内容が科学的知見によって裏づけられるのであれば、それらを通じて論理的に学ぶことにより、短い瞑想期間で効率的に、あるいは瞑想に取り組むことなく机上の学習だけで「悟り」が開けるかもしれません。何度瞑想に挑戦してもさっぱりうまくいかず、がっかりしてばかりの私にもチャンスあり、です!
もし皆さんが赤い薬の内服効果に関心をもたれるようなら、本書は最適な「最初の一歩」になることでしょう。キアヌ・リーブスが映画で辿った軌跡を、自分自身でリアルに経験できる……かもしれません。のけぞって銃弾をよけられたりして!?
ちなみに冒頭で触れた幸福の40%を決定する「意図的な行動」については、古今東西の知見を私なりにまとめた結果、今からちょうど3年前に『4週間で幸せになる方法-Twenty-eight tips to create joyful life』とのタイトルで上梓することができました。今でもネット書店では販売してくれているようなので、「医者なのに幸福感が低いぞ」と首を傾げている方にご一読いただければうれしいです。
『なぜ今、仏教なのか~瞑想・マインドフルネス・悟りの科学~』
著者 | ロバート・ライト |
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翻訳 | 熊谷 淳子 |
出版 | 早川書房 |
定価 | 1,188円(税込) |
『4週間で幸せになる方法-Twenty-eight tips to create joyful life』
著者 | 内山 直 |
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出版 | セルバ出版 |
定価 | 1,650円(税込) |
(令和3年12月号)