大塚 岳人
もう20年も前の大ベストセラーである。100ページにも満たない薄い本で、皆さんの中にもお読みになられた方がたくさんいると思う。帯には「1時間で読めて10年間役に立つ」とある。以下、この本の設定を表紙カバーから抜粋する。
この物語に登場するのはネズミのスニッフとスカリー、小人のヘムとホー。
2匹と2人は「迷路」のなかに住み、「チーズ」を探します。
「チーズ」とは、私たちが人生で求めるもの、つまり、仕事、家族、財産、健康、精神的な安定…等々の象徴。
「迷路」とは、チーズを追い求める場所、つまり、会社、地域社会、家庭…等々の象徴です。
この一見シンプルな物語には、状況の急激な変化にいかに対応すべきかを説く、深い内容がこめられているのです。
物語の冒頭で2匹と2人は「迷路」の中で好みの「チーズ」を見つける。この“自分たちのチーズ”は決してなくならないと信じて、その場所へと通う日々が描かれる。私たちに置き換えれば何の変哲もない日常といったところだろう。ところが、ある朝、チーズがなくなっていたことで彼らは何かを変えざるをえなくなる。問題がおきたときどうするか、が問われる。ネズミたちはスニッフ(“かぎつける”の意)とスカリー(“素早く動く”の意)という名前が象徴するように、すぐに次の行動、つまり別のチーズを探す旅に出る。
一方の小人たちは「チーズはどこへ消えた?」「こんなことがあっていいわけはない」と「否認」「怒り」をあらわにする。明言されてはいないがこれは死の受容の五段階を前提としているのではないか。そして次の会話「この事態はわれわれのせいじゃない。」「誰かほかの者のせいなんだから。」「なんとしても真相を究明するんだ」で読者はハッと気づく。私たちは小人をバカにしながらこの本を読んでいたが、小人は私たちそのものじゃないか、と。誰かのせいにして、責任や原因のことばかりにとらわれ、今すべきことを理解できていないのは私たちも同じではないか。
数年前、私は毎日悩んでいた。いつからか書棚に増えてきた啓発本、ビジネス本は当時の状況を打開するのに役立っていないことは明白だった。藁にもすがる思いで数年ぶりに本書を手にした。あらすじを覚えていたがために手を伸ばす気になれなかった本だ。特別なことは書かれていなかったはずだ。成功者の体験談が書かれているわけでもない。断じてしまえば、うじうじした小人の寓話に過ぎない。
当時の私は間違いなく小人のヘム(“閉じ込める”の意)だった。「(別のチーズをさがしに)出かけよう!」と言うホー(“口ごもる、笑う”の意)に「ここがいいんだ。居心地がいい。ここのことなら、よくわかっている。ほかのところは危険だ」と答えたヘムそのものだったのだ。誰しも心の中にヘムを持っている。悩み苦しんでいるときにはヘムの存在は一層大きくなる。新しい信念を得るべきときに古い信念であるヘムが足をひっぱるのだ。
続編『迷路の外には何がある?』(スペンサー・ジョンソン著 扶桑社 1100円)ではヘムのその後が語られる。ヘムは「取引」「抑うつ」を経てようやく現状を「受容」する。そして自らの意思で変わろうとし、重い腰を上げた。死の受容の五段階を乗り越えた先に、新たな「生」を意識させる。
私たちの日常でも外的な働きかけのみでは限界がある。やらされていると思えばやる気もなくなっていく。指導する立場になるとしばしば経験する事象だ。結局、ヘムを変えたのは彼自身だった。迷路をさまよい歩き、ついには「迷路の外」=「新しい信念」に到達する。映画『ショーシャンクの空に』の一場面が頭に浮かんだ。
良書は読者に「気づき」を与える。「気づき」は、自分の内面にあるにもかかわらず自分では見出せなかったものを言語化し具体化するプロセスだ。本書は読んだ時期によって違った「気づき」がある。かつて私は小人と自分の境遇を重ね合わせて一歩を踏み出す勇気としたが、今回久しぶりに読み返してみて、2匹と2人(言い換えれば自分とその周りの人たち)を俯瞰して見ている自分がいた。私を変えたのは私自身だった。少し成長した気がした。また数年たつと違った読み方ができるはずだ。「1時間で読めて一生役に立つ」本に違いない。
『チーズはどこへ消えた?』
著者 | スペンサー・ジョンソン |
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出版 | 扶桑社 |
定価 | 921円 |
(令和4年5月号)