松浦 恵子
宇佐美まことさんとその作品を紹介する本の帯に、ミステリー作家の文字があった。私が最初に読んだ彼女の作品『子供は怖い夢を見る』は、タイトルに”怖い”の文字が入っていたこともあり”宇佐美作品=怖い”というイメージが私の中にできあがっていた(彼女と書いたが『子供は怖い~』を読み終えた時点では、男性と思っていた)。その怖いイメージはあながち的外れではなかったと、二番目に読んだ本著『羊は安らかに草を食み』で思う。
『羊は安らかに~』では三人の女性が旅に出ることになる。互いに、まあさん(益恵、86歳)、アイちゃん(アイ子、80歳)、富士ちゃん(富士子、77歳)と呼び合う三人は、俳句教室を通して知り合った二十数年来の友人だ。三年前から、益恵に認知症の症状がみられるようになり、少しずつ進行している。不安や恐怖の感情をみせる益恵を見守る夫は「過去の断片が、まあさんを苦しめている。それまで理性で抑えつけていたものが溢れ出してきているのだ。彼女の心のつかえをとり除いてあげたい」と思うようになる。
益恵がかつて暮らした土地、大津、松山、五島列島を巡る旅をすることで、益恵自身がつかえを除くきっかけになる気がするのだと、アイ子、富士子の二人は、脚が不自由な益恵の夫に旅の同行を託される。
これまで、明るく前向き、温厚で強靭な精神の持ち主だった益恵。そんな彼女が語ろうとしなかった過去を辿ることになるかもしれない旅が始まった。
旅先で、かつて益恵が暮らした当時の知人により彼女の過去が語られる。それと並行して、11歳で満州から引揚げてきた益恵の過去が、読者にだけ語られる。これまで益恵が語ろうとしなかった、これから先、語られることのない、過酷で壮絶な過去の真実の物語。
『羊は安らかに~』の怖い話はここである。終戦を機に北満からの逃避行が始まる。家族と死に別れ、生き別れて一人きりになった11歳の少女が見て、聞いて、体験した、生き延びるための過酷な日々。道中、同じように孤児になった少女、かよちゃんと出会い、支え合い「生きて日本へ帰る」を合言葉に耐え抜く日々。
二人の体験ではないが、徴兵で満州に渡った人の話も壮絶だ。いずれ敵兵と対した時のため、として「人を殺す訓練」が行われる。村を襲撃して捕まえた、捕虜という名の民間人(中国人)を銃剣で刺し殺すよう上官から命じられる(刺突訓練)。そのくだりは読むに堪えない。
平和な世の中であれば、罪として咎められるであろう、騙し、欺き、自分と友を守るために人に危害を加える。悪いことと知りつつ、それをしなければ生きられない環境が、戦時下、敗戦後に現実であったことを目の当たりにして、私は怖さで慄えた。現実は怖い、人は怖いものであると物語はぐいぐいと私に迫って来た。
荒んだ状況の中にあっても、国籍によらず、貧富によらず、少女達に手を差し伸べてくれる人々があり、それだからこそ生き延びて引揚げてからの彼女達は、良心を失わずに戦後を生きた。まあさんとかよちゃんと読者しか知らない、この逃避行が圧巻である。
今回の旅の同行者、アイ子と富士子も、人生の最後の時期を考え、それぞれが抱える屈託があるが、旅の終りに落ち着きどころを見つける。緊張の連続だった物語の終盤のサスペンスドラマ仕立てのシーンは、ちょっとした緩和をもたらしてくれる。そして、穏やかな結び。宇佐美作品は怖いけれど、後味は悪くない。
戦争にまつわる悲しく悲惨で怖い過去の話として本書を読み終えて間もなく、ロシアがウクライナに仕掛けた戦禍が報じられ、未だ止むことがない。物語と同じではなくとも、大きく違わないと思われる怖く、酷い戦禍を思うと居たたまれない。優れた統治者は望めないのだろうか。
『羊は安らかに草を食み』(バッハ作曲)
「よき牧人が見守るところ、羊たちが安らかに草を食む。統治者が優れている地では、安息と平和が訪れる」(アリア)
『羊は安らかに草を食み』
著者 | 宇佐美まこと |
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出版 | 祥伝社 |
発行日 | 令和3年1月20日 |
定価 | 1,700円(税別) |
(令和4年8月号)