浅井 忍
著者は、かつて言語学の研究にいそしみ、AIに携わったことがあり、プロレスをはじめとする格闘技が大好きで、本書の出版社名に東大と名がつくが東大とはほとんど関係がないという人物。現在、言語学や情報科学をテーマに著作活動を行っている。本書は、東大出版会が発行するPR紙『UP』に掲載された著者のエッセイをまとめたもの。
バーリ・トゥードとは、ポルトガル語で「なんでもあり」という意味で、ここでは、ほぼなんでもありの最低限のルールで闘う格闘技のことである。『シャーロック・ホームズの帰還』で、ホームズは盟友ワトソンに、自分はバリツという柔術を修得していると話している。ひょっとすると、バーリ・トゥードとバリツは語源が同じかもしれないと思った。調べると、バリツは日本語の武術を聞き違えたもので、なんの関係もなかった。
本書を読むにあたっては、プロレスにある程度の理解がある方がよい。大宅壮一ノンフィクション賞の審査員を務めていた立花隆は、同賞の第22回受賞作(1991年度)である『プロレス少女伝説』(井田真木子/文春文庫/1993年)の論評で、プロレスファンを敵に回すような大人気ないプロレス批判を書いた。プロレスネタがあまた出てくる本書を、立花隆がどう評価したか興味のあるところだった。
本書の副題である〈AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか〉の項では、ダチョウ倶楽部の上島竜兵の鉄板ネタについて触れている。周囲の仕掛けた罠にはまり上島が熱湯風呂に落とされる芸だ。上島がバスタブの縁に両手両足をかけ四つん這いになって、「絶対に押すなよ」と後ろの人物を制するが、真意は「押せ」なのだ。この矛盾を、AIはどう克服するのか。この項では「意図」と「意味」について考察している。著者は、この相反する状況をAIが理解できるとも理解できないとも断定してないが、文脈は理解が難しいようだ。上島問題は一部だけで大半は自らの著書『自動人形の城(オートマトンの城):人工知能の意図理解をめぐる物語』(東京大学出版会/2017年)の解説である。
〈宇宙人の言葉〉の項では、著者がネットで見つけた「宇宙人の言葉は地球人の言葉とあまり変わらない」というノーム・チョムスキーの発言がネタになっている。チョムスキーは、言語学の「普遍文法」を生み出した巨匠である。プロレスならば力道山のような存在というが、同感だ。表紙イラストでは真ん中に配置されている。普遍文法の実証作業は膨大で、現在もなお行われている。著者はいくらなんでも、ぶっ飛びすぎの発言だと思ったという。そのソースを調べてみると、何年か前に、「我々は宇宙人の言語を習得できるか」という質問に、チョムスキーは「宇宙人の言語が普遍文法の原理から外れていなければ可能でしょう」と答えた。これに尾鰭がついて冒頭の言葉になったのだろうと著者は推論する。普遍文法とは、人間の脳には生まれながらに普遍的な言語機能が内蔵されているというもので、私はコンピュータにおけるオペレーション・システムのようなものと理解した。
本書は、落語でいえば枕の部分で読み手を巧みに惹きつけ、プロレスネタや芸能ネタを絡ませて難しくなりがちな言語論を親しみやすく語っている。さらに、瑣末なネタを取り上げるところも本書の魅力のひとつだ。たとえば、「エマニエル夫人」を演じた、シルヴィア・クリステルがフランス人ではなくオランダ人だと知ったときに衝撃を受けたという。それは、「インドの狂虎」タイガー・ジェット・シンがカナダ人と知ったときと同じくらいの衝撃だったと、まったくもって瑣末だが、共感できるトリビアが書かれている。本書はプロレスに理解があって、サブカルチャーに関することならなんでも首を突っ込む覚悟があって、言語学に興味のある人に、おすすめである。
『言語学バーリ・トゥード Round 1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』
著者 | 川添 愛 |
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出版 | 東京大学出版会 |
発行 | 2021年 |
(令和4年11月号)