永井 明彦
国際法や人道を無視したロシアのウクライナへの軍事侵攻が止まない。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック宣言後2年近くが経ち、漸く経済が回復しようとした矢先に突然始まった侵攻に世界中が衝撃を受けた。小国のウクライナは世界2位の軍事大国に短期間で屈服するのではと思われたが、兵站を疎かにした前近代的なロシア軍はウクライナの頑強な抵抗に遭い、首都キーウは陥落せず、北大西洋条約機構(NATO)諸国の強力な支援もあって「特別軍事作戦」という名の戦争は停戦の見込みも立たず泥沼化している。戦争は長期化してNATOとの代理戦争の様相を呈し、ロシアのプーチン大統領は言論と情報の統制と戦時経済への移行を余儀なくされ、国内のマスコミ報道にはロシア軍による大本営発表(プロパガンダ)が溢れた。
そんな折りに、ジュンク堂書店新潟店で「ロシアのウクライナ侵攻や米国のトランプ現象を解き明かすカギがここにある」と本の帯に書かれた『ダビデの星を見つめて』という新刊書が目にとまり購入した。著者の寺島実郎氏は筆者と同年代の論客で、民放テレビの報道番組でコメンテーターを務め、簡潔で核心を突いた解説は傾聴に値する。氏は三井物産に入社後、調査部に属して米国駐在が長く、フィールドワークと文献研究を整理し、世界に独自のネットワークを築く民族の存在を『大中華圏(ネットワーク型世界観から中国の本質に迫る)』と『ユニオンジャックの矢(大英帝国のネットワーク戦略)』に著わし、考察してきた。三部作の最終作として、ウクライナ危機を契機に自己の体験を通して「ユダヤ・ネットワーク」を取り上げたという。本書は本格的でユニークな「ユダヤ論」にも仕上がっており、些か長くなるが、私見を混じえてじっくり紹介してみたい。
本書の冒頭では、ウクライナ危機を考える上でのユダヤ的要素が概説されている。ウクライナのゼレンスキー大統領や彼を支える多くのスタッフはユダヤ人である。戦況を伝える欧米のマスメディアもユダヤ系の通信社が多く、ウクライナの戦闘をサポートしている。プーチンはユダヤ人の大統領が率いるウクライナへの侵攻を、驚くべきことに「ナチズムとの戦い」とする政治宣伝を強めた。ウクライナはナチス・ドイツとの戦いで800万人も犠牲になっているが、本会報1月号で熊谷理事が紹介された『ウクライナ現代史(独立後30年とロシア侵攻)』にも記されているように、第二次大戦時にソ連と対峙してナチス・ドイツのユダヤ人虐殺に関わった民族主義的ウクライナ人が実在したのは事実である。彼らはネオナチのバンデラ派と呼ばれ、マリウポリの製鉄所で奮戦し降伏したアゾフ連隊は、その流れを汲んでいる。
ロシア政府は「非ナチ化」とウクライナの大統領がユダヤ系であることの矛盾を問い質され、「ヒトラーにはユダヤ人の血が流れていた」とか「ユダヤの敵はユダヤだ」といった倒錯して欺瞞に満ちた弁解を行い、ゼレンスキー大統領がユダヤ系でもナチス的要素を持ち得るとして、世界中のユダヤ人コミュニティが激しく反発する事態を招いた。ゼレンスキーはロシアのファシズムをラシズムと呼んで民間人殺害の非道を非難し、旧ソ連に組み込まれていた東欧諸国では、逆にプーチン政権をナチス・ドイツと同一視する見方が強まっている。苦戦するロシアは、侵攻の理由や目的についてウクライナの「非ナチ化」や「非武装中立化」から「祖国防衛」にすり替え、長期戦に布石を打った。
プーチンの脳裏には、現在のウクライナや欧米の諸国を支配する金融資本主義の総元締めとしてのユダヤ人に対する捻れた意識が交錯し、彼の言う「ネオナチ」はウクライナの愛国的極右グループを指すだけでなく、ロシアに敵対する国際勢力も含むのではないかと著者は指摘する。勿論、ヒトラーにユダヤの血が混じっていたという俗説は科学的には否定されているが、プーチンが何故ここまで「ユダヤ」を嫌悪するのかが、本書の後半で解き明かされている。
序章では、ユダヤについての基本的な考察がなされ、反ユダヤ主義が生まれた源流が示される。キリストの生涯を記した『新約聖書』にあるように、ユダヤ人のイエスが裁判にかけられ、ゴルゴダの丘で磔刑に遭ったのはユダヤの最高議会の責任であり、キリスト教文明の中では、神の子キリストを殺したのはユダヤ人だという潜在意識が受け継がれている。それが今もユダヤ人に対する根強い差別と偏見を生む底流になっている。ユダヤ人は土地を持たぬ民として主に都市に住み着き、商業や金融業に携わったが、地域社会と打ち解けようとせず、民族独自の宗教や習慣を頑なに守り続ける不気味な存在と捉えられ、各地で迫害された。しかし、「バビロンの捕囚」やディアスポラ(離散)を民族の記憶として抱えるユダヤ人は、親からの資産や既得権益のもとで生きるより、自己の創造的な才能と努力で生きることを大切にし、他人に与することなく個としての強さを発揮して世界的ネットワークを形成してきた。
21世紀をリードするユダヤ的思考様式の中心にある価値観の柱は、「高付加価値主義」と「国際主義」だという。高付加価値主義は高学歴志向をもたらし、医師、弁護士、技術者などの高度専門職を生み、国境を越えた価値を重視する国際主義(インターナショナリズム)は、自国を相対化し、国家を超えた秩序形成や課題解決に繋がる。その典型が労働者の国境を越える連帯を訴えた唯物史観のカール・マルクスである。日本の学生運動でも、かつては「インターナショナル」という労働歌が歌われたが、その国際主義はユダヤ人の思考様式から生まれたと著者は言う。世界人口80億人の約0.2%の1500万人に過ぎないユダヤ民族が、多くの偉人を排出して人類に貢献してきたのは、彼らの思考様式や価値観に与るところが大きく、歴史に足跡を残した過去のユダヤ人には、人類にパラダイムの変革を迫るような思想の持ち主が多い。
著者はニューヨーク(NY)に赴任していた頃に聞いたという、ユダヤでは有名なジョークを紹介しているが、それはこんなジョークである。人類史に大きな影響を与えた5人の偉人が、天国で「人間の行動を本質的に規定するものは何か」というテーマで議論に及んだ。最初に口を開いたのは「十戒」のモーゼで、「人間が人間であるための要素は理性だ」と。するとイエス・キリストがハートを示しながら「いや、それは愛です」と反論した。2人の議論を聞いていた『資本論』のマルクスが口を挟む。「とんでもない。すべては胃袋、つまり経済が決定するのです」。そこにもっと本音で議論すべきだと、フロイトが「人間の行動の本質は性、セックスなのだ」と割って入った。4人が侃々諤々の議論をしているところにアインシュタインがやって来て、舌をペロリと出して「いやいや皆さん、すべては相対的なのです」。いやはや、大変なジョークだが、そう、人間存在の本質に迫り、世界を大きく動かしたこの5人は皆ユダヤ人である。そのことに気付いた著者は愕然としたという。
さらに、現代の著名なユダヤ系米国人を挙げてみると、マンハッタン計画で原爆の開発に携わったオッペンハイマー博士、著者が米国滞在中に知己を得たというハンガリー系の投資家ジョージ・ソロスとキッシンジャー元米国務次官がいる。また、筆者夫婦が40年前に米国衛生研究所(NIH)にポスドクとして留学した際、米国免疫学会でお会いした神経病理学者のジンマーマン先生も。因みに先生は故生田房弘先生がNYのモンテフィオーリ病院で研究された時の恩師で、新大脳研究所には生田先生が持ち帰られたアインシュタインの脳の切片がある。NIHの研究室のボスも2人ともユダヤ系で、妻のボスのオッペンハイム先生はLAF(IL-1)の発見者として有名だった。最近のビッグ・テック企業群では、アマゾンの最高経営責任者(CEO)アンディー・ジャシーやメタCEOのマーク・ザッカーバーグ、さらに、COVID-19ワクチン開発の先頭に立ったファイザー社CEOのギリシャ系ユダヤ人アルバート・ブーラ、そして、米国人ではないが、ヘブライ大教授でベストセラーの『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』を著わしたユヴァル・ハラリなど枚挙にいとまがない。
次の章では、著者の米国駐在経験やユダヤ人社会との付き合いから、アメリカ合衆国という国は宗教性が国の在り方に深く絡みついているということが強調され、米国政治とユダヤの複雑で微妙な関係について触れられている。米国のユダヤ人人口は2%程度だが、「トランプ現象」の深層にはユダヤが関与しているという。トランプ前大統領ほどイスラエルにシフトした大統領はいない。娘婿がユダヤ系であることも関係して在任中にエルサレムをイスラエルの首都として承認した。トランプの岩盤支持層である福音派プロテスタントがユダヤ人でもないのにイスラエルを支持するのは何故か。9.11同時多発テロで生まれた「イスラムの脅威」への危機感を背景に、福音派の中からキリスト教のユダヤ化ともいうべき「キリスト教シオニズム」という考え方が生まれたという。イスラムの反米闘争を利用し、反ユダヤ主義のキリスト教徒さえもシオニズムに引き込むユダヤのしたたかさを注視すべきだとしている。「トランプ現象」はアメリカ人の本音が噴き出した痙攣のようなもので、もはや「世界の警察官」でも「理念の共和国」でもなくなった自国への苛立ちと悲しみが込められていると著者は指摘する。
欧州におけるユダヤ人の足跡についても、多くが記されており、特に世界的な情報ネットワークを築いたロスチャイルド家の歴史が詳説されている。日露戦争の戦費を支えるなど幕末維新からのユダヤと日本の関係や、ナチス・ドイツによるホロコーストについても詳しい解説があるが、紙面の関係で詳細は省く。
本書の後半では、ウクライナ危機に関連して東欧とユダヤの関わりについて、改めて多くが記されていて興味深い。歴史的には、ビザンツ帝国の時代より黒海沿岸のウクライナからコーカサスにかけてユダヤ商人が往き来していたが、17世紀にポーランド・リトアニアの貴族の代理人として農業開拓のためにウクライナにユダヤ人が定住し始めた。ロシア帝国における反ユダヤ主義に伴う略奪や殺害などの暴力的排斥行為は「ポグロム」と呼ばれ、ユダヤ人が多く住んでいたウクライナでは大量虐殺が行われた。
『資本論』や『共産党宣言』を著わしたマルクスはプロイセン出身のユダヤ人であり、ロシア革命を主導した無神論者のレーニンもユダヤ系ロシア人で、「赤軍の父」トロツキーもオデッサ生まれのユダヤ人である。10月革命を率いたボリシェヴィキの幹部には、革命によってユダヤへの迫害がなくなることを社会主義に期待して行動したユダヤ人が多かった。未熟な「産業資本主義」の段階にあったロシアにおいて、階級闘争理論に基づく労働者革命が成功したのも、迫害されてきたユダヤ人が革命運動の中核となって主導してきたからだという。プーチンにはロシア革命もその後の社会主義国家ソ連の成立も国際シオニズムに立つユダヤ人が主導した歴史に見えるのだろうと、著者は指摘する。しかし、1917年のロシア革命後にウクライナはソ連邦の一部となり、キーウ工科大などが最先端の科学技術の開発拠点となって多くのユダヤ人の研究者や技術者がソ連を支えた。さらに、ウクライナに侵攻したプーチンのクレプトクラシー(泥棒政治)を支えてきたオリガルヒ(新興財閥)のリーダーの殆どが、ユダヤ系であるのも皮肉な事実である。
日本民族もユダヤ民族と同様に非常に特異な民族である。日本の古墳時代の遺跡からユダヤ人に似た埴輪が出土することから「日ユ同祖論」を主張する研究者もいるが、ユダヤ人に比べれば、日本人は世界的なネットワークを持つどころか、時にガラパゴス化して孤立しがちである。本書の最後では、日本もイスラエルを手本にしたたかに生きていくべきだとしているが、バイオ大国、ハイテク軍事大国として地域強国となり、右傾化して極端な自国利害中心主義を強める危ういイスラエルには、厳しい目を向けていく必要があるのではないだろうか。
『ダビデの星を見つめて─体験的ユダヤ・ ネットワーク論』
著者 | 寺島 実郎 |
---|---|
出版 | NHK出版 2022年12月 |
定価 | 1,800円(税別) |
(令和5年3月号)