長谷川 功
伏見宮は室町時代の崇光天皇の皇子・栄仁(よしひと)親王を祖とする世襲親王家である。第3代貞成(さだふさ)親王の第一皇子の彦仁王が後花園天皇となって今日の皇統に連なり、第二皇子の貞常親王が伏見宮第4代で、その後も歴代当主は天皇の猶子となって親王に任ぜられ皇位継承権を有した。「もうひとつの天皇家」といわれるゆえんである。江戸時代末期の第20代邦家親王が子福者で、明治以降久邇宮、北白川宮など多くの伏見宮系の宮家ができ、「そこまで言って」でお馴染みの竹田恒泰氏もこの系統に属する。
伏見宮宗家を継いだ第22代の貞愛(さだなる)親王は元帥陸軍大将であるが、明治天皇の命で恩賜財団済生会の初代総裁となった。わが済生会のカレンダーに「露にふす末野の小草いかにぞとあさ夕かかるわがこころかな」との親王の御歌がある。これは社会の片隅で病んで伏している人を気にかける済生会の事業の精神を詠まれたものである。
第23代の博恭(ひろやす)王は元帥海軍大将で、その孫が本書の伏見博明氏である。昭和7年に博明王として生まれ、昭和21年に14歳で第24代当主となり、皇位継承順位7位であった。昭和22年GHQの指令で皇籍離脱して伏見を名乗った。
本書は青山学院大の教授らが、博明氏から10回にわたる聞き取りで作成したオーラルヒストリーである。紀尾井町の伏見宮邸は現在のホテルニューオータニを含む広大なもので、家族ごとに別荘や運転手付きの車をもつという皇族の特権が語られ、父を「おもうさま」、母を「おたあさま」など御所言葉を使っていたという。一方で母はもとより家族とも離されて生活し、運転手付きの車の中でも決して寝てはいけない、男子皇族は軍人になる定めと徹底したノブレスオブリージュを叩き込まれた。貞愛親王が陸軍だったのは船酔いするためとか、博恭王は海軍だが、どちらの大臣が先にお祝いに来たかで行先が決まったとのユーモラスなお話もある。
皇籍離脱については、15歳とお若かったこともあり、宮さまという縛りがなくなり、自由になれる気持ちの方が強かったと語られている。この際の昭和天皇の「皇族としての皆さんと食事を共にするのは今夕が最後ですが、従来の縁故と云ふものは今後何等変るところはないのであって将来愈々お互いに親しく御交際を致し度いと云ふのが私の念願です」とのお言葉が印象的である。
博明氏はその自由を活かしてケンタッキーへ留学された。米国人に「なぜケンタッキーなのか」と問われて「日本人のいない所だから」と答えたら「アメリカ人もあまり行かないな」って。フライドチキンが本当に美味しくて、三菱商事の人に話したのがKFCが日本に上陸するきっかけになったそうである。
上皇さまとは1歳違いということもあり、戦時中一緒に疎開したり、乗馬をしたなど多くのエピソードが語られている。皇太子時代に初渡米でニューヨークに着かれたとき、ケンタッキーから車を飛ばして会われたとのことである。
本書は、昭和の戦前から終戦直後の旧皇族の生活や思いを知る貴重な資料である。現在安定した皇位継承に向けて、長子相続とし女系天皇も認める案や、旧宮家の復帰により男系継承を維持すべきなどの案が出されている。その際、こうした伏見宮の歴史や実相、宮家の維持に腐心してきた先人達の思いを十分理解したうえでの深層的な議論を期待したい。
『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』
著者 | 伏見博明 (編者:古川江里子、小宮 京) |
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出版 | 中央公論新社 |
出版日 | 2022年1月26日 |
定価 | 2,400円(税別) |
(令和5年12月号)