吉川 惠次
著者は、自己紹介によれば、毎年100人程度のご遺体解剖も実施する高齢者専門の総合病院に約35年勤務してきた老年医学とくに老年精神医学のプロフェッショナルである。
本書では高血圧、糖尿病、脂質異常症など直接的な症状のあまりない、いわゆる生活習慣病やメタボリックシンドロームと呼ばれる疾患・病態における関連検査データの”エビデンス”に基づく正常値化を目指す投薬への懐疑論が展開される。検査データや画像を見て、診断して薬を決めるのであればAIに勝てるわけもなく、患者さんの訴えに寄り添い、これを解決しようという姿勢こそ医師には第一と強調、ご自身も高血圧、糖尿病でおられるが、血圧を下げ過ぎるとボーとして活力が出なくなるので170㎜Hgくらいで、HbA1c値もかなり高いレベルで可としているとのこと。
著者はEBM(Evidence-Based-Medicine)が金科玉条のごとく扱われる今日、その肝心のエビデンスの多くが海外のものであり、そもそも本邦ではプラセボ群をおいた調査によるデータは極端に少なく、対象者の大部分が食べ物、体格、生活習慣も違う他国の人種を対象にした調査の結果であり、これが日本人にそのまま当てはまるのか?との疑問をもつ。
JAMA(The Journal of the American Medical Association)に掲載された降圧薬服用群とのプラセボ群間での(前向き)大規模比較調査における5年後の脳卒中発生率では、両群間で5.2%対8.2%の有意差がみられ、降圧薬投与の有効性を示すエビデンスの1例として紹介される。著者はこの結果を「後生大事に5年間薬を飲んでいたにもかかわらず、100人に3人しか脳卒中は減っていない」、「薬を飲まなくて170㎜Hgくらいの血圧でも90%くらいの人は脳卒中にならない」と解釈。「この薬を飲まないと脳卒中になりますよ」と患者さんを脅かす医者は「詐欺師」といえるかもしれず、「血圧の薬を飲んだら、脳卒中になる確率が多少下がりますよ」との言い方がこのエビデンスに忠実な説明であろうと述べている。
次に脂質異常症への対応と発ガン傾向について。欧米では毎年5%ずつガンによる死亡者が減少している一方、日本ではその増加が止まらない。動脈硬化の原因とされる悪玉コレステロールは、一方で免疫能の維持や増進に重要な栄養素であり、内臓脂肪が免疫細胞を育てている可能性を示す研究を紹介、ガンの増加の原因の1つとしてコレステロールに対するわが国の敵視状況をあげている。関連する報告の1つ、最近の東北大学公衆衛生学グループの宮城県民5万人を対象とした追跡疫学調査ではBMI(Body Mass Index)が25~30のやや肥満気味の40歳男性・女性の平均余命が最長、肥満パラドックスが示された。2つ目は韓国における130万人を対象とした9年間の追跡調査である(2017年発表)。この調査では心筋梗塞、脳血管障害、糖尿病、ガン、急性肺炎、透析、肺気腫において痩せている人より太っている人が長生きをするという結果が示された。
さらに、医師による健康管理への介入の効果自体を検証した調査結果も追加される。この介入結果は「フィンランド症候群」と呼ばれる。これはフィンランド労働衛生研究所が1974~1989年に行った調査で、40歳から55歳までの1,222人をランダムに2群に分け、一方は医師が5年間の定期健診および砂糖や塩分量など食事のほか、たばこ、アルコール、運動に至るまで管理をした群(612人)、他は定期健診もせず本人たちのやりたいように暮らしてもらった群(610人)である。15年後の追跡調査結果では、医師が介入した前者では67人が死亡、医師が介入しなかった後者での死亡者は21人少ない46人であった。とりわけ心臓疾患の死亡者では特に差が大きく、介入群が34人、非介入群では14人。健診を受けたり、生活指導をされたりによるストレスがかえって悪いのではないか?医療にかかわらないほうが人は長生きできるのではないかと医療関係者を愕然とさせたとのこと。
さらに著者は80歳以上の高齢者では、認知症は運転中の交通事故の大きな原因ではなく、様々な薬剤の多剤併用による譫妄がその原因の大部分ではないか、高齢者では検査データを正常化するだけの薬は意味がないばかりか、交通事故という薬害を引き起こしているのでは?と手厳しい。関連して、後期高齢者を対象とした自動車運転免許更新時の認知機能検査についても、外国から見ればこれは露骨な高齢者差別、非人道性極まりないと批判。実際、高齢者の事故率は若者のそれより低く、また、高齢者死亡事故例の特徴は他人をはねるのではなく、自分が犠牲になることが多いという。血糖値や血圧の”正常化”が高齢運転手の脳にエネルギー不足、酸素不足をもたらした結果、意識がボーとなって事故につながるのであろうとも述べている。ちなみに、認知症と糖尿病の関係については糖尿病患者が認知症になりやすいのではなく、治療による血糖値の過度の正常化が神経細胞の栄養不足をもたらし、脳の萎縮に繋がるのであろうとの私見も述べている。
世界145か国で確認された「幸福のU字カーブ」すなわち、人は高齢になるほど自分が健康だと感じるようになる、すなわち、健康感が高まってくる現象が紹介され、症状のない高齢者へのデータ正常化を目指す慢性・持続的な投薬は、この健康感を損ね、免疫能を低下させ、かえって寿命を縮めているのではないか?とも疑っている。
本書には2年前に上梓された『80歳の壁』(幻冬舎新書:2022年3月25日発行)と重複する内容もかなり多い。新しい知見が加わったほか、医学・医療関連のほか、長年にわたり高齢者に接してきた著者ならではの観点からの超高齢社会である我が国の多くの問題点が指摘され、はっと気づかされるものも多い。交通事故防止のために全国に設置された歩道橋わきにエレベーターがない、歩道や公園のベンチが少ない、高齢者の活発な屋外活動は健康に良いだけでなく、このための環境整備にかかる経済活動をもっと活発にすれば、今日の景気浮揚に資するほか、今日の開発途上国も早晩高齢社会となって同じような環境整備に迫られるため、将来的にも世界をリードする我が国の産業分野になるであろう等、内容は盛り沢山であった。正直読み終えて軽い疲労感も残った1冊であるが、一読をお勧めしたい。
『老いるが勝ち』
著者 | 和田秀樹 |
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発行所 | 文春新書 |
ISBNコード | 978-4-16-661464-6 |
発行日 | 2024年8月20日 |
価格 | 本体900円+税 |