大川 彰
A・J・クローニンの長編小説『城砦』は、一人の若き医師の成長と葛藤を通して、医療の理想と現実を静かに問いかけてくる作品です。物語の主人公アンドルー・マンソンは、炭鉱町の貧しい地域医療に身を投じ、理想に燃えながら診療に励みます。無知や迷信、劣悪な衛生環境と闘い、患者の命を守ろうと奮闘する彼の姿は、読む者に医師という職業の原点を思い起こさせます。しかし彼はやがて都会へ移り、名声や収入に恵まれる一方で、医療が商業主義に傾いていく現実に直面します。理想を貫くべきか、現実と折り合うべきか、その揺れる心の軌跡こそが、この作品の大きな魅力です。
本書が優れているのは、医療制度の問題や職業倫理を告発的に描きながらも、決して説教調にならず、人間ドラマとして自然に読者の胸に届く点にあります。医療に携わる者であれば、時代や国が違っても思い当たる場面が少なくないでしょう。若き日の理想、経験を重ねる中での迷い、組織や慣習との軋轢、それらは決して特別な物語ではなく、誰の心にも潜む現実だからです。だからこそ本書は、単なる文学作品にとどまらず、「医師とは何か」を静かに問い続ける鏡のような存在として読み継がれてきました。
私がこの本を初めて手に取ったのは中学生の頃でしたが、勧めてくれたのは、今は亡き母です。当時の私は医師になるつもりなど全く無かったのですが、振り返ってみると、母は本書を通して、私に医師になることを勧めていたのかもしれません。
『城砦』は華やかな医療成功譚ではありません。むしろ、理想が傷つき、信念が試され、それでもなお人を救おうとする心の物語です。読み終えたあと、派手な感動ではなく、胸の奥に温かな余韻が残ります。医療の道を志す若い人には進路を考える一冊として、すでに現場に立つ人には初心を思い出す一冊として、さり気なく薦めたくなる作品です
因みに、私が中学生時代に読んだ『城砦』は三笠書房から出版された竹内道之助訳のものでしたが、近年は絶版状態となっており、若い世代には入手しにくい状況にありました(ネットで古本が7,000円ほどの高値で売買されていたとか)。再評価の機運が高まる中で復活企画が立ち上がり、現代の読者に響く翻訳者として白羽の矢が立ったのが医師であり作家でもある夏川草介氏です。医療現場を知る視点と文学的表現力を併せ持つ点が決め手となったようです。依頼に際しては、著者クローニンの精神を損なわず、現代語としての読みやすさを両立させることが求められたそうです。夏川氏自身も本作に深い共感を抱いており、医師としての葛藤や理想を自らの経験と重ねながら翻訳に臨んだと聞いています。

『城砦』
| 著者 | アーチボルト・ジョセフ・クローニン 夏川草介 訳 |
|---|---|
| 出版 | 日経BP |
| 発行日 | 2024年7月29日 |
| 価格 | 上下各1,980円(税込み) |
(令和8年5月号)