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新潟市医師会報より

新潟市医師会

『武器としての日本語思考』

永井 明彦

世界には6千もの言語があるが、その習得に時間がかかるという点では、日本語は群を抜いており、米国の国務省も世界で最も難解な言語の筆頭に日本語を挙げている。日本語には膨大な数の漢字・仮名・カタカナの3種類の文字があり、アルファベット26文字(大小52文字)を使う言語に比べれば、圧倒的に構造的に複雑で、欧米人は「悪魔の言語」とさえ言うが、世界唯一の三文字体系が産み出す日本語の読解効率の高さや情報量の圧縮度は他に類を見ない。

第二次大戦直後にGHQは日本が国粋主義に走ったのは「漢字文化」のせいだとし、漢字の使用を放棄させ、民主化の一環として日本の国語をローマ字化しようとした。そのため国語研究所はGHQと共催して昭和23年に漢字の理解度を確かめる大がかりな国語テストを行った。その結果、皮肉にも国民の識字率はほぼ100%で、ローマ字化は見送られたという痛快な歴史がある。言語社会学者の鈴木孝夫慶大名誉教授が著わした岩波新書の『日本語と外国語』には、「日本語は音声と映像という二つの異質な伝達刺激を必要とするテレビ型言語で、欧米の言語は音声に必要な情報を託すラジオ型言語である」という記述がある。この際の映像というのは、日本語の漢字仮名混じり文を指すが、視覚を通して得られる情報量は、聴覚の千倍もある。日本語は音韻・音節構造が貧弱である上に、基本語彙の意味が抽象的なので、伝達効率を上げるためには、視覚的要素と高度な弁別性を持つ漢字を利用して、テレビ型言語にならざるを得なかった。そのため耳で聞くラジオ型言語を話す欧米の人々に比べ、日本人には非識字者が稀であり、戦後、漢字使用を放棄させようとしたGHQの目論見を見事に打ち破ったという訳である。

日本語の特異性に常に関心を持ち、購書癖のある筆者だが、行きつけの書店の新書コーナーで、『武器としての日本語思考』(新潮新書1114)が目に止まったので紹介したい。著者の松元崇氏は元内閣府事務次官、現在は国家公務員共済組合連合会理事長で、本書は財務省広報誌『ファイナンス』に連載した『日本語と日本人』を基に新たに書き下ろしたものだという。国家公務員共済組合の健康保険といえば、予算は潤沢で、かつて処方薬は先発品しか使わないのではと揶揄されたが、大蔵官僚を経て公務員のトップに昇り詰めた著者は、日米金融協議やTPP交渉などの国際的な修羅場をくぐり抜けてきただけに、その主張には傾聴に値するものがある。

本書は10章に分かち書きされている。最初に欧米の言語と異なって「主語のない日本語」の強みや「世間」で愉しむ日本の文化に触れる。英語や中国語と日本語の最大の違いは、日本語には主語がないことだが、周囲の空気を読んですぐ結論を出さない日本語は殺伐とした雰囲気を和らげて「ふあ~として心地よい」人間関係を作り出すという。さらに日本語と英語の「議論」の特徴を解説して「英語や中国語の議論」の落とし穴を指摘する。即ち、日本の議論は「論より証拠」で行われるが、英語の議論は逆に「証拠より論」で客観的な事実を離れて論理的に構成された理論の方が一段と高い真実だと考えるという。中国語による議論も「証拠より論」だそうだが、英語の議論は単刀直入な「ズームアウト(演繹?)」であり、大きなカテゴリーから小さなカテゴリーへと絞り込む「ズームイン(帰納?)」のスタイルの日本語の議論とは対照的である。最後にAI時代に価値を生む日本語にも言及し、主語のない日本語思考は、剥きだしの自己利益を主張する現代では「まとめ役」として逆に強みとなり、日本語空間が世界を救うと主張して終わる。

巻末の参考文献は言語学のみならず、日本文学や歴史や哲学にも及ぶ広範な資料で、著者の飽くなき探究心を窺わせるが、比較言語学に興味を持って読んだことのある懐かしい書籍も散見される。この書籍は2026年2月に新潮社から発刊されたが、同年3月には建築家の若山滋氏による文明論『漢字文化圏の興亡:中国の限界、日本の前途』(新潮新書1118)が後を追うように発行されたので、併せて簡単に紹介し、マイライブラリィ欄執筆の責めを果たしたい。

『漢字文化圏の興亡』の著者の若山滋氏は、長年、建築と文化の関係を探求してきたが、本書では、世界各地での興味深い実体験を織り交ぜながら、独自の日本文化論を展開している。

古来、日本人は漢字文化圏の中国、アルファベット文化圏の西洋と向き合い、日本独自の仮名文字に代表される「和能」をもって大陸の文明を受容してきたという。それに対して、占いの結果を示す甲骨文字から始まった漢字は表語(表意)文字であり、その成立には「呪術性」が関わっている。中国語には命令文がないが、少し強めに発音すれば命令調になる。中国語そのものが命令的ともいえるが、かつて米国に留学し、癌研究をしていた時に、中国系アメリカ人研究者同士の中国語による議論が、まるで、けんか腰の激しい口論に聞こえた経験を思い出す。

著者は近代とは、アルファベット圏の文化が漢字圏に襲いかかった時代であり、現代とは、漢字圏の文化がアルファベット圏に乗り出した時代であるともいう。明治の文豪、夏目漱石は漢字の文化的な呪能と英語の文明的圧倒に挟まれて葛藤した。漢字の呪術的な力は「呪能」であるが、日本語の仮名には、その呪能を和ませる力、他と親和する力としての「和能」があるという著者の指摘は、最初に紹介した『武器としての日本語思考』に通じるものがあるようで、興味深い。

この新書は世界情勢と東西の力学が大きく変容しつつある今、日本人が進むべき道は何処にあるのかを示す画期的な文明論でもあり、併読をお勧めしたい。

『武器としての日本語思考』

著者 松元 崇
出版 新潮新書 2026年2月
定価 880円(税別)

『漢字文化圏の興亡:中国の限界、日本の前途』

著者 若山 滋
出版 新潮新書 2026年3月
定価 880円(税別)

(令和8年7月号)

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