新潟市民病院 小児科 塚野 真也
(1)はじめに
令和6年4月から医師の働き方改革が始まります。平成30年6月29日に「働き方改革関連法」が成立したことを受け、平成31年4月から労働時間の上限規制が設けられました。従来は36協定で特別条項を締結すれば時間外労働に制限はありませんでしたが、特別条項をつけても原則年720時間以内、1か月100時間未満の上限が導入されました。しかし医師については医師法に基づく応召義務などの特殊性などを考慮し、医療界との検討を経て、令和6年4月の施行となりました。この度、「勤務医ツイート」の執筆の機会をいただきましたので、私のこれまでの「働き方」についてご報告しようと思います。
(2)20~30才 卒後から研修時代
私は昭和59年に新潟大学医学部を卒業しました。現在のような臨床研修システムはなく、卒後はすぐに新潟大学の小児科に入局しました。半年間は大学勤務でした。給料はかなり少なかったと思います。医者になりたてのホヤホヤでしたので、小児科外来などのバイトは無理で、唯一の臨時収入はツベルクリン接種とその判定のバイトでした。当時の医局の方針で、若いうちはたくさんの病院をまわるということになっていましたので、その後はしばらく半年間毎に異動していました。住居は病院の指定宿舎で家具付きでしたので、教科書の他は衣類と布団を自分の車に詰め込んで移動していました。最初の異動先は旧新井市にある頚南病院(現・けいなん総合病院)でした。その後は刈羽郡総合病院(現・柏崎総合医療センター)、済生会三条病院と異動しました。これらの病院の小児科は私を含めすべて2人体制でした。当時は新潟県内の基幹病院でも小児科医は3~4人の時代でした。夜間休日の当番はオーベン(上司)と分担するところもありましたが、主にネーベン(私)が対応する病院もありました。時間外勤務の届け出は病院によって異なりました。働いた時間を記録する場合や、患者一人一人の診療内容を記録する場合もありました。ポケットベルはありましたが、まだ携帯電話などはありません。外に出ている場合は公衆電話などから病院に連絡しなければならず、今から考えればかなり不便でした。またポケットベルがない病院もありました。その時は自宅と病院外にいる場合には病棟にその都度居場所を連絡したりしていました。
昭和61年春からは鶴岡市立荘内病院へ異動しました。荘内病院は地域の基幹病院で、小児科医は4人で、低出生体重児も診療していましたし、その他の重症患者も多く入院しました。まだNICU(neonatal intensive care unit=新生児集中治療室)当直はありませんでしたので、全館当直以外は拘束番で対応していました。荘内病院は1年半勤務し、3か月間大学にもどったあと昭和63年1月から国立療養所新潟病院(現・国立病院機構新潟病院)に異動しました。養護学校(今でいう特別支援学校)が併設されていましたので、気管支喘息や腎疾患などの慢性疾患で地元の学校になかなか登校できないこどもたちが多く入院し、また神経筋疾患や重症心身障害児の病棟がありました。当時は小児病院構想があり、小児科医は7人で、各専門分野の先生方が在籍し新生児病棟もありました。慢性病棟が主で急性期の患者も診療しておりましたが、救急患者は多くはなく、ある程度余裕を持って診療できていたように思います。
(3)30~45才 大阪時代
専門分野として循環器を選択し、平成元年春から大阪府吹田市藤白台にあった国立循環器病センター(現・国立循環器病研究センター)にレジデントとして3年間在籍しました。住居は病院の敷地内にある「レジデントハウス」で、ベッドと机、本棚を置くと一杯になる狭い部屋でした。簡単な調理設備はありましたが、洗濯機やお風呂・トイレは共同でした。レジデントは朝に雇用、夕方には解雇され、これを日々更新するという勤務形態でした。小児循環器科のスタッフは9人で、レジデントが12人はいたと思います。北は北海道、南は沖縄まで全国から重症心疾患のこどもが紹介されてきました。入院患者は3病棟に分かれて常時100人程度いましたので、仕事が夕方までに終わるわけもありませんでした。しかし研修内容は充実しており、小児科部長およびスタッフから小児循環器病学の基礎を徹底的に叩き込まれました。私はこの時30才前後でしたが、このレジデント3年間でその後の診療スタイルが固まっていったように思います。
レジデント3年間が終了し、平成4年春から新潟大学で2年半、その後は立川綜合病院に7か月間勤務しました。私は大学では医員でしたが当時の大学も時間外勤務の届け出はありませんでした。心不全で呼吸器管理を要した児も一般病棟でみていた時代です。2~3日連続で病棟の当直室に泊まったこともありました。ところで私は小学校からバスケットボールを始め、中学、高校を経て大学の部活は6年生までやっていました。当時は6年生までやっていた部も多かったと思います。高校時代には学校の教室に自宅から布団を持ち込んで寝泊まりする夏合宿(もちろんクーラーなどなし!)があり、OBも大勢集結して厳しい薫陶を受けました。当時は普通でしたが練習中の水分補給は禁でしたし、合宿中には真夜中の突然の“特別ルーズボール練習”も1回経験しました。練習は“しんどかった”のですが、そのおかげか体力には自信がありました。診療がハードで徹夜になっても高校時代に比べたら断然ましと思っていました。その後、大学の医局を離れ、平成7年春から平成17年までの10年間を国立循環器病センターのスタッフとして勤務しました。働き方としてはレジデントのときと同様、帰宅は深夜でした。父親不在の中、長女も弟の面倒を見てくれていて、その影響でかなり大きな円形脱毛症になってしまいました。それからはなるべく早く帰宅して、こどもが寝てから夜な夜な病院へ行ったりしていました。正規職員でしたが時間外勤務の提出はなく、勤務時間にかかわらず一律の時間外手当がつくようでした。この間、平成12年の7月から2年間、米国カルフォルニア大学の成人先天性心疾患センターに留学する機会を得ました。米国の医療・働き方はその当時の日本とは異なる部分が多く驚きもありました。詳細は割愛しますが、今の日本と比較すると、医療スタッフ数はまだまだ日本は少ないですが、グループ診療や当直制度などは近いものでした。
(4)45才~ 新潟に戻る
平成17年春に新潟へ帰ることを決意し、県立新発田病院に異動しました。そして次の年に新病院に移転しました。NICUも新設されNICU当直が開始されました。当時は4人でNICU当直を毎日まわしていたのでかなりハードでした。一応当直明けは帰宅となっていましたが、病棟・外来とデューティーも多く、翌日も時間外勤務になることが多かったと思います。時間外勤務時間は記録しておりましたが、まだ労働時間が問題になるようなことはありませんでした。その後、同期の小児科医のあとを継ぐ形で平成28年春に新潟市民病院に異動しました。私は新潟市生まれの新潟市育ち、小学校から大学まで新潟市でした。しかしその後の勤務地は新潟大学以外すべて市外・県外でした。いつかは生まれ育った新潟市のこどもたちのために働きたいとも思っていましたし、定年までの9年を見据えての異動でした。市民病院では循環器診療を主に行い、新潟市二次輪番病院の当直、NICU当直などを行いました。当院は時間外勤務の管理は病院全体で厳格に行われるようになっており、時間外労働の多い医師は産業医との面談を行うようになっています。私も今まで何回か面談しました。しかしその甲斐もなく?今年の6月に心筋梗塞になりました。生死をさまよう時間があったと思いますが、当院のスタッフのみなさんのおかげでなんとか命拾いをすることができました。市民病院で市民のために頑張ろうと思っていましたが、私が市民病院に助けられました。後になって考えると反省点は多いものです。年なのに当直がハードだろうなと思いながら一方で充実感もありました。学生時代の体力は医師になってもしばらく維持されていましたが、40才くらいで貯金を使い果たした感じでした。しかし50才前後からランニングを始め、フルマラソンを10回以上完走しました。最後は令和元年11月、還暦での神戸マラソンでした。その後コロナ渦でマラソン大会の中止が相次ぎ、運動不足になっていたにもかかわらず、体力の衰えなどの自覚が足りなかったと思います。発症する前に気づかなければいけませんでした。現在、夜勤はしておりませんが、睡眠を十分にとると体がこんなに楽になるのかと今更ながら睡眠の重要性を再認識しています。その点で人の忠告(とくに妻)は素直に聞かなければと思いました。
(5)「釣りはフナに始まりフナに終わる」
魚を釣るのに用いる道具の総称を六物(りくもつ)といい、竿、糸、針、おもり、うき、餌のことをいいます。フナ釣りは近所の川や池などの身近な場所でできる釣りで、こどもの頃にフナ釣りで釣りの楽しさを覚えます。大人になってからは行動範囲も広くなり、海、渓流に行き、釣り方もサビキ、ルアー、疑似餌、友釣りなども経験するようになります。そして年をとるとまた近所でフナ釣りをするようになりますが、フナ釣りは実は奥が深く、晩年になってこの六物を使用した素朴な釣りの楽しさを再認識するようになるのだそうです。
勤務医の定年までを考えてみました。あくまで私の個人的な見方です。最初は見習いで始まります。その後、専門分野を選んでから2~3年でようやくその分野のスタートラインに立ちます。その後10年以上専門分野を極めると、専門家として評価をもらえるようになります。また“イケイケドンドン”の診療スタイルから“石橋をたたいて渡る”ことや“それでも渡らない”スタイルまで、柔軟性を身につけるようになります。40才以降は臨床経験も豊富となり、医師として円熟期に入ります。また、若いうちはあまり気にしませんが、人生の後半期に入り、自分の死についても意識するようになります。自分自身は「医師は40才過ぎてから」と感じるようになりました。50才以降は視力、体力、記憶力は徐々に衰え、60才以降になれば、気力、咀嚼・嚥下力、呼吸機能の低下なども注意が必要です。しかし臨床経験、調整力などは積みあがっていきます。私は来年度末で定年を迎えますが、飛行機でいえば着陸態勢に入るというところでしょうか。
エリクソンは自身の発達段階理論で人生を8つの時期に分け、それぞれの時期の課題を挙げています。壮年期(40~64才)は“次世代を育てる”ことで、老年期(65才~)は“自分の人生を振り返り肯定できる”ことです。勤務医である以上、後輩を育てていくことは重要と思います。定年後はまだ具体的には考えておりませんが、これまでの医師(勤務医)人生を振り返り、ライフワークバランスをしっかり考えていこうと思っています。徐々に仕事量を減らすとして、最後は健診や予防接種などに従事するかなと思います。これらは病気を直接みるわけではありません。しかし育児相談などもあり、小児科医としてのいろいろな経験が必要になりますし、こどもの健康に貢献できるものと思います。
(6)最後に
日本の医療システムはアクセスの容易さ、医療費、医療の質などは世界に誇れるものと思いますが、少ない医療スタッフの絶え間なき努力で支えられている部分が大きいです。働き方改革は持続可能なシステムを構築することで医療者の健康を維持し、最終的にはそれが患者さんにも大きなメリットをもたらすと思います。ただ個々の病院で医療事情が異なりますので、遂行にあたっては問題も多いと思います。上限を守ることばかりに注視せず、スタッフの健康状態の把握が重要と思います。
(令和5年10月号)